イメージ 1
 
旅行記2日目です。
1月2日も晴天。富士山がきれいに見えました。
この日は甲府市にある武田神社へ初詣に行きました。
 
イメージ 2イメージ 3
戦国武将、武田信玄公を御祭神とする神社で、かつて信玄公が居城としていた場所にあります。
 
「人は城、人は石垣、人は堀」といわれるように、最強の家臣団を持っていた信玄は甲斐の国に城を築きませんでした。
 
上の言葉には「情けは味方、仇は敵なり」 と続きます。
 
 
 
治水工事、農業、商業の隆興に力を入れ、
領民にも大変慕われたそうです。
 
信玄さん自身のことについてはまだ不勉強で知識が浅く、
あまり書けずごめんなさい(*´ω`)。
 
 
イメージ 4
 
お正月だったので当然ですが、結構混んでいました。
係員の方が一定の人数づつを前に通すようにされていました。
ここでの待ち時間20分くらい。
 
イメージ 5
 
まずは無事に山梨まで来れたことへの御礼を伝え、
そしてちょこっとお願いごとを。(#^^#)
 
こちらのご祭神は勝運の神様でもあります。
さてさて私の勝運はどれくらいかな・・とおみくじを引いてみたら
中吉でした。内容を忘れてしまうといけないので
写真に撮ってから境内に結んできました。
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
宝物殿も見学してきました。
信玄公ゆかりの宝物がたくさん展示されており、その中に
武田氏の戦略、戦術を記した甲陽軍鑑がありました。
江戸時代のものでしたから大変貴重なものですね。
 
甲陽軍鑑は軍事マニュアルという側面だけでなく、
人の上に立つ者としてのあり方を記した書物です。
江戸時代を通じて武士たちの間で熱心に読まれていたそうです。
 
武田軍では具足や旗指物を朱色にしていて
赤備えと呼ばれてました。
信玄に率いられた彼らはめちゃめちゃ強くて常勝軍でした。
 
信玄なきあと遺臣の多くは徳川家の重臣井伊家に召し抱えられました。
後々、「井伊の赤備え」として有名になります。
当時は実力があれば主がいなくなっても
ちゃんと働くところがあり、また主を替えるということも
実力主義の戦国時代では普通のことでした。
 
あと「孫子の旗」、俗にいう「風林火山の旗」も展示されていました。
「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」の文字が紺地に金泥で
書かれていました。長さ376センチx幅83センチと大きなものです。
 
時代を経ているので、色は褪せて
ところどころ破れた箇所などもありましたが、
これが何百年も前に実際に使われていたと思いながら眺めると、
感慨深いものがありました。
 
「風林火山」とは中国春秋時代の兵法書「孫子」の軍争篇の一説で
信玄が旗印として用いていました。
当時、武田軍のこの旗があがっただけで
兵の士気は上がり、敵はふるえあがったそうです。
 
信長や家康からもとても怖れられた信玄は
53歳の時に西へ向かう途中で病没してしまいます。
歴史に「もし」はなくても、この人がもっと長生きしていたら
日本史はどうなっていただろうかと
ちょっとそんなことも考えてしまいました。
 
 
イメージ 8