
旅の最終日は広島に宿泊し、数年ぶりに平和記念公園を訪れました。
この日も青空が広がり太陽の日差しが強く、大変暑い日でした。
ホテルから歩いて公園に向かいました。
商店街を抜けて公園に足を踏み入れた時に最初に目に入ったのが原爆ドームです。
チェコの設計家による建物で、被爆前は広島県産業奨励館という
今でいうところのデパートであり、大変優美な外観をしたモダンな建物であったようです。
資料館のガイドさんから伺いましたが、現在神戸に本社を置くユーハイム
(バウムクーヘンで有名)の一号店もここにあったそうです。
戦後、辛い記憶を思い出すので取り壊してほしいという要望もあったそうです。
むき出しの鉄骨や暴力的に破壊された建物を眺めていると、
大変暗澹とした気持ちになります。
実際に被爆された方々がこの建物を見る時の気持ちを思うと言葉がありません。
元安橋を渡って右側に見えるのが原爆の子の像です。

2歳で被爆し10年後に亡くなった女の子を偲び、また原爆で亡くなった子供たちの
霊を慰めるために建てられたものです。女の子は鶴を1000羽折れば治ると信じて
鶴を折り続けていたそうです。現在もたくさんの折鶴が捧げられています。
平和の灯。写真にはうまく映りませんでしたが灯がともされています。
昭和39年の点火以来、ずっと燃え続け、核兵器が地球上から姿を消す日まで
燃やし続けようという祈りの火となっています。
その向こうに見える建物が 広島平和記念資料館です。

資料館は過去に訪れた中で、今回が一番混んでいました。
それぞれの展示の前にガイドさんがおられ、詳しい説明を聞くことができました。
メモを取らなかったので記憶にある限りで書いています。
この模型は原爆が投下される前の広島市中心部です。
現在の公園がある場所です。
建物がたくさん立ち並び学校や病院などもあります。
「はだしのゲン」の主人公が通っていたとされる小学校もありました。
産業奨励館(原爆ドーム)の位置は川のV字型の下あたり、
爆心地はこの近く、写真の右端くらいです。

原爆投下の瞬間。
爆弾は地面に落ちて爆発したのではなく、上空1800フィートで爆発したのだそうです。
このポイントで爆発させることで爆弾の破壊力が最大になると設計されたそうです。
爆弾がさく裂した瞬間、ピカっと白い光が空に広がりました。
白い光は280メートルにも及ぶもので、その後、数秒間にわたり
爆風が広島の街を覆ったそうです。

爆風による地面の温度は4000度にもなりました。
鉄が溶ける温度が1500度ですから、これはもう想像できないほどです。
「はだしのゲン」の原作者、中沢さんも子供の頃にここで被爆されているそうです。
たまたまコンクリートの塀を背に立っていたので塀に遮られて命が助かったそうです。
漫画の場面で、ゲンは原爆投下の時、コンクリートの塀を背に、
あるおばさんと向かいあって話をしていました。
爆風が去った後、ゲンと向かい合って話していたおばさんは
黒こげになって即死していました。これがさっきまで喋っていたおばさんなのだろうか、
一体何が起こったのだろうか?と驚きでいっぱいになります。
近くにいるおじさんに助けを求めようとしたらそのおじさんも死体になっていました。
何が起こったかわからない、というのがその場にいた人の実感だったのでしょう。
原爆投下後の広島。
爆心地から2キロ以内は爆風による熱線と火災でほぼ壊滅したそうです。

ゲンの原作者の中沢さんは偶然にも生き残りましたが
他にもわずかにそういう方々がいらしたそうです。
でも本当にわずか。ガイドさんの説明では川沿いの学校では300人の
生徒がいて女の子が一人助かっただけだったとか。
あと何かの倉庫があって、たまたま地下の貯蔵庫にものを取りに行った人がいて
助かった人もおられるそうです。その方はその時、30代、その後は70代まで
長命されたそうです。
現実には殆ど全てが破壊されてしまい、人々の命も一瞬にして奪われました。

展示されている写真や被爆者の方々の遺品などを見ていると
いたたまれない気持ちになります。
下はその展示の一部です。お弁当箱と三輪車。
中のごはんは真っ黒に炭化しています。
このお弁当を食べるはずだった人はどうなったのか、
この三輪車に乗っていた子供はどうなったのか・・
やっぱりそういうことを考えてしまいます。


原爆投下から9日後に戦争が終わりましたが、被爆された方々の苦しみは
何十年たっても続いています。
現在地球上には広島に投下された爆弾の何十倍、何百倍もの破壊力を
もつ核爆弾が数千発存在しているそうです。
これもガイドさんから聞いた話ですが、原爆投下後、わずか数日後に
広島の街では路面電車の運行が再開されたそうです。
車掌は若い10代の女学生。(男の人は戦争に行っていたので
こうした女学生が電車を運転していたそうです)
仕事に向かう彼女に、上司は
「お金のない人からは集金しなくてよいから」と空の集金袋を
渡したそうです。電車に乗り込んでくる人は皆、お金を持ってないので
「ありがとうございます」というお礼を言って、その電車に乗り、降りていかれたとか。
生き残った人々は被爆して数日で運行を始めた路面電車をみて、
その姿に大変勇気づけられたそうです。
人々にとって路面電車は復興の象徴であり、
今でも路面電車は皆に愛され、
市民の足として活躍していると伺いました。
広島では現在でも路面電車が廃止になった全国の街から
古い車両を買い受け、市内を走らせているそうです。
このため広島は「生きた交通博物館」として電車ファンにとって
大変人気があるのだそうです。
資料館の地下で、偶然にも「はだしのゲン」の原画展が開催中でした。
旅の数日前に読んだ漫画の原画がそのまま展示されていて
不思議な偶然に少しおどろいてしまいました。
中沢さんは続編を考えておられたようです。

続編にはまだ絵は入っておらず、枠と吹き出しのセリフだけが
書きこまれていました。
被爆者が戦後、被爆したという事実だけで大変な差別を受けていたことが
セリフから読み取れました。
ゲンは東京に働きに行ったのですが、被爆者ということがわかると、
「ピカを浴びたものに近づくと移る。お前なんか近寄るな!」
というような言葉を投げつけられています。
これも原作者の実体験なのでしょう。

公園内には多くの慰霊碑、慰霊塔がありました。
そのうちのひとつの前を通った時、色とりどりの花と共に
ペットボトルのお水がたくさん供えられているのが目に入りました。
原爆投下後、水を求めて街をさまよい続け、熱い、熱いと
苦しみながら死んでいった人たちの姿のことが思い浮かびました。
その碑の前で大学生くらいの男の子が3人、
黙って長い時間、手を合わせている姿が記憶に残りました。
現在はきれいに整備された公園もこの50センチ下は
当時のがれきが残ったままなのだそうです。
今回は多くのガイドさんに接することができたおかげで
貴重なお話しをたくさん伺うことができました。