イメージ 1
萩での観光は最後に萩城址へ行きました。
 
萩城は関ヶ原の役の後に築かれたお城です。戦国時代、毛利家は安芸の国を本拠地として中国地方に120万石の大領土を有していました。でも関ヶ原の役で西軍についたため、戦後処理の際に家を存続させる代わりに周防、長門の2カ国36万石に減封されてしまいました。
 
お城を建てる場所も当初は山口か長門も候補地にあげていたようですが、幕府からそれは分限にあわず、と、鄙びた萩に築城することを命じられたそうです。
 
イメージ 2
 
120万石から36万石、と領土を3分の1以下に減らされたにもかかわらず、毛利家は家臣の数をリストラせず、そのまま維持したので長州は侍の数がとても多い藩であったそうです。身入りは少なかったから侍の生活は大変だったと思います。戦争に負けるとどこでも同じ結果が待っていますが、やっぱり悲惨ですね。辛酸をなめた長州藩は江戸時代を通じて「倒幕」を極秘の「国是」とし、新年拝賀の儀で家老が藩主に倒幕の伺いをたて、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのがならわしだったとか。
 
イメージ 3
 
徳川家に対する恨みの深さをうかがわせるエピソードですね。((+_+))
 
お城は萩市内の西北隅、指月山(標高143メートル)の麓に建てられました。山名をとって別名指月城とも呼ばれ、立派な天守閣があったようですが、明治の初めの廃城令で、破却されてしまいました。
 
往時の写真が入口にありましたのでカメラに収めてきました。
 
 
 
イメージ 4

イメージ 5
 
現在残っているのは台座のみです。
そういえば三重県では藤堂藩が32万石で殆ど同じ石高だったなあと思い出していましたが、ちょっと歩いてみただけでも、なんだか違います。領土を削られて小さい国になってしまったとはいえ、このお城跡にはかつては中国地方に覇を唱えた毛利家の、それだけでは表せない威容があるように感じました。
 
 
 
 
イメージ 7
 
お城跡は現在は指月公園として整備されています。
 
イメージ 6
 
指月山にも登れるようになっていたのですが
夏の日に山登りはとても、とても・・・ということで
写真だけ撮って帰ってきました。(^_^;)
時間が足りず、書院や長屋など飛ばしてきてしまったので
いつか機会があったら、またゆっくり散策してみたいです。
今度はもう少し寒い時期に。
 
イメージ 8
 
 
 イメージ 9