
名張でお花見の日、名張藤堂家邸跡にも行きました。

江戸時代初めの一国一城令で廃城になりましたが
それ以前に、この地には名張城というお城があり、
跡地に名張藤堂家の邸宅が建てられました。
元の邸宅は宝永7年(1710年)に名張大火で類焼し、
焼失したため、現在の邸宅はその後の再建だそうです。
再建後の屋敷図が展示されていましたが、
現存部分の10倍はあるかと思われ、
大変広いものだったようです。
現存する江戸時代の上級武家屋敷は数が少ないそうです。
当主の生活の場になっていた中奥部分が残っているのは
大変貴重なことなのですね。

豪商のお屋敷というような派手さはなく、上級武士の邸宅らしい、気品を感じるしつらいでした。
名張藤堂家の家祖は藤堂高吉。
藤堂高虎の養子です。
名張の城下町は高吉によって築かれました。

藤堂家の家紋は蔦紋ですが、
名張藤堂家の家紋は桔梗。
名張の地名となっている「桔梗ヶ丘」の由来は
名張藤堂家の家紋にあるということを
この日、初めて知りました。
家祖藤堂高吉の生涯をちょっと調べてみました。
丹羽長秀の三男として生まれ、
当初は豊臣秀長の後継に、と養子に迎えられるも、
信長が亡くなったことでその政治的価値がなくなったと
秀吉により後継の話がキャンセルされてしまいます。
それで、正室に息子がいなかった高虎が
信長が亡くなったことでその政治的価値がなくなったと
秀吉により後継の話がキャンセルされてしまいます。
それで、正室に息子がいなかった高虎が
自分の後継にと、また養子に彼を迎えるのですが
その後、高虎に長男が生まれたので
その後、高虎に長男が生まれたので
その後継話もまた消滅してしまいます。
高吉の家は藤堂家の名張分家となりますが、
本家からはずっと冷遇されていたようです。
家紋が違うのもこうした背景があったためだとか。
大変波乱に富んだ生涯であった高吉ですが
城下町の発展に努め、地元では名君として慕われていたようです。
この写真は旧正門(通称 太鼓門)。
満開の桜の花がとてもきれいでした。
