イメージ 1京都旅行記、まだ続きます。
二日目は東山区界隈を歩きました。
 
この日は智積院、三十三間堂、昨日の記事に書いた養源院を見学しました。
 
今日は智積院のことを書きます。
智積院の境内は思っていたより随分広かったです。真言宗智山派の総本山として全国に末寺3千を擁するとのことですから、とても大きなお寺ですね。
 
全部観て周る体力がなかったので、この日は収蔵庫、講堂、庭園、大書院のみ見学してきました。
 
まず拝観受付所で拝観料500円を払うと、「最初に収蔵庫の絵を見て行ってくださいね」と案内されました。
 
 
 
収蔵庫の中には長谷川等伯一門によって描かれた障壁画(国宝)が公開されています。
「桜図」「楓図」など金箔をふんだんに使った力強い絵が視界いっぱいに広がります。
写真撮影禁止だったのですが広い収蔵庫の全壁面に絵が描かれていて圧巻でした。
入口脇にあったボタンを押すと自動的に説明の声が流れます。
 
長谷川等伯は能登国七尾(現在の石川県)生まれ。
彼の生涯をちょっと調べてみましたが、このひと、なかなかの野心家だったようです。
当時の主流だった狩野派に強烈なライバル意識を持ち、そこから学びつつも
千利休と交流をもち、堺で活躍する茶人たちから中国絵画の知識を吸収し、
独自の画風を確立していきました。
 
天正19年、豊臣秀吉は亡くなった愛児鶴松の菩提を弔うため
祥雲禅寺(現在の智積院)を創建し、この時、狩野派ではなく、長谷川等伯に
障壁画を描くように命じました。
 
前年にも等伯は仙洞御所の障壁画を受注していたものの、狩野永徳の妨害で
取り消されてしまったという経緯もあったようです。
こんなエピソードを知るにつれ、画壇の世界でも
戦国武将たち同様に絵師の間で陰謀、駆け引き、
戦いが繰り広げられていたのだろうと感じます。
 
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大書院の障壁画。
レプリカですが、この空間に入ったとたん、
一気に視界が明るくなったように感じたほどです。
惜しげなく金箔が使われ、桃山文化の豪華絢爛な空気が漂っています。
 
長谷川等伯は後継者と考えていた息子を若くして亡くすなど
私生活では辛いこともありましたが、絵師としては順調な生涯であったようです。
 
雪舟5代と名乗り、その後も大寺院から数々の制作を依頼され、
彼の遺した作品は多くが重文、国宝に指定されています。
 
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大書院から望む庭園。
利休好みと伝えられています。
座ったポジションで眺めるのが一番良いお庭らしいです。
小さいお庭ですが、重厚な感じ。
紅葉の頃など彩豊かな光景を楽しめるのではないかなと思いました。
 
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写真には撮りませんでしたが、講堂の襖絵も立派なものが
たくさんありました。
淡い桃色で描かれた枝垂れ桜の襖絵がありましたが
あとでそれが墨絵だと知ってびっくり。
私の目には桃色に見えたのに、墨の濃淡と自然光の具合だけであのように
見えたのでしょうか。
またゆっくり訪れてみたいお寺です。
 
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