新平家物語14巻~16巻を読み終えました。
14巻目は壇ノ浦の戦い、平家の滅亡。
 
「波の底にも都の候う」という言葉を残し、
安徳天皇を抱えて二位の尼を始め、
平家の人々が次々と海の中へ果てて行くとても哀しい場面です。
 
一族の最期の日、太陽が西に沈むとき、
荘厳の美を極めた落日を西方の浄土とみて、皆が掌を合わせる描写があります。
なんともいえない胸を打つこの場面が目の前に浮かびあがってくるようでした。
 
平家方の主将、知盛や猛将と言われた教経、
一族の人々が、いざここまで、という時に死と向かい合う場面、
皆、生に執着せず、最期こそ潔くというように
あっけなくこの世から去っていきます。
 
そんな中、平家の総領であった宗盛は
卑屈なほどの生への執着を見せるのですね。
これは武士の生きざまという観点からは
見苦しいものだったでしょうが、
私はこの下りを読んでいて、あまり好きでなかった
宗盛に、「人間って本来はこんなものだろう」という
たまらない人間臭さを感じ、共感を覚えてしまいました。
 
栄華を誇った平家も、ほんのわずかな期間のうちに
西に追われ、海の藻屑と消えてしまい、
その半年後、小説では15巻目~16巻目になりますが
今度は武勲第一であった義経が兄頼朝から追われる身となります。
 
彼は奥州の藤原家を頼って逃げ落ちていきますが
義経も、ついには衣川の館で果てることになります。
 
強力な鎌倉幕府の基盤を固めた頼朝も
それからまもなく落馬がもとであっけなくこの世を去ります。
 
平家の隆盛と没落、それに続く源氏の台頭、
そして新政権の瓦解・・・と、人々の顔ぶれは変わっても
権力への闘争は終わることがありません。
多くの人々は権力の所在が変わるたびに
それになびき、あるいは振り回され、数々の悲劇が生まれていきます。
人間がそこから逃げ切ることができない
業みたいなもの・・・、
それが一貫して描かれれているように思います。
 
諸行無常というテーマのこの長編小説を読んでいくうちに、
「人間にとっての幸福とは何か」ということを
知らず知らずのうちに自分自身に問わずにはいられなくなります。
 
物語の初めから最後まで、一庶民の立場からこの権力の興亡を
眺める阿倍麻鳥と蓬という貧しい医者夫婦の姿が描かれています。
 
物語の最後、ある春のうららかな日に、老夫婦で吉野の桜を観に行って
満開の花を眺めながら、二人静かに寄り添って
幸せとは何かと語り合う場面でこの小説が終わります。
 
作者の吉川先生は、この長い小説を通して、人間の愚かさを描くと同時に
人間にとって何が一番価値があり、大切なものか?ということを
最後の場面で凝縮して伝えようとされている気がしました。
 
一番大切なものは目に見えないのです。
西洋の小説にもこんな言葉が出てくるお話がありましたが
実際、そうなのかもしれません。
 
 
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