新平家物語10巻目を読み終えました。
8巻目は源平の富士川の戦いから始まります。
8巻目は源平の富士川の戦いから始まります。
清盛の息子たちや孫たちの時代になると
平家の人たちは貴族化してしまっていて、
もはや創業者の苦労とか、
一般庶民の生活の苦しさなども
わからなくなってきているのですね。
そうなると、必然的にといおうか
人心も平家から離れつつあります。
武士とはいえ、平家の人物はその多くが
源氏物語の絵巻に描写されるような
雅な生活をしていたような人たちです。
武士とはいえ、平家の人物はその多くが
源氏物語の絵巻に描写されるような
雅な生活をしていたような人たちです。
富士川では戦いが始まる前に、
平家軍は水鳥の羽音にびっくりして潰走してしまいます。
緻密に組織化された源頼朝の軍とはまるで対照的です。
頼朝が富士川に陣を進めた時、
頼朝が富士川に陣を進めた時、
腹違いの弟である義経と黄瀬川の地で
初めて対面する場面がありました。
初めて対面する場面がありました。
身内に会えて喜びを隠せない義経と違って
頼朝はこんな時もとっても冷静。
そしてたとえ身内であっても義経は自分の部下に過ぎないという
扱いを徹底します。
頼朝はこんな時もとっても冷静。
そしてたとえ身内であっても義経は自分の部下に過ぎないという
扱いを徹底します。
頼朝のこういう人情味の薄いところが
身内をひたすら大事にしていた清盛と大きく異なり、
身内をひたすら大事にしていた清盛と大きく異なり、
清盛の人間味に心を寄せてしまうのですが
残念ながら、後の平家凋落の遠因となった
清盛の誤まりのひとつは
こうした身内贔屓にあったのかもしれません。
また同じ時期、木曽義仲が蜂起し、猛々しい木曽軍は
勢いに乗って京の都に押し寄せます。
そして平家の都落ち。
ここは涙なしでは読めないところでした。
勢いに乗って京の都に押し寄せます。
そして平家の都落ち。
ここは涙なしでは読めないところでした。
日の出の勢いの木曽義仲は朝日将軍とまで呼ばれ、
一時は京の都に覇を唱えますが、
それもごくわずかの期間でした。
やることなすこと荒々しい木曽軍の所業は
都人には忌み嫌われ、政治力も全くなかった彼は
後白河法皇や公卿達の陥穽に落ち、粟津原で
僅か31歳で斃れてしまいました。
一時は京の都に覇を唱えますが、
それもごくわずかの期間でした。
やることなすこと荒々しい木曽軍の所業は
都人には忌み嫌われ、政治力も全くなかった彼は
後白河法皇や公卿達の陥穽に落ち、粟津原で
僅か31歳で斃れてしまいました。
この後に都入りしたのが義経であり、
ここからは歴史に残る源平の戦いが
繰り広げられていくことになります。
ここからは歴史に残る源平の戦いが
繰り広げられていくことになります。
ここまで読んだだけでも
平家物語のテーマといえる
無常感が一貫して基調にあるのを感じます。
隆盛を誇ったものも
時の流れと共に滅び、また新しい勢力が立ち、
そして彼らも滅んでいくのです。
今回読んだ8~10巻の3冊は
木曽義仲について描かれた部分が大半でした。
木曽義仲について描かれた部分が大半でした。
そういえば・・・
去年、滋賀県の大津市にドライブに行った時に、
偶然、義仲寺というお寺を見つけました。
境内に入ってみて
去年、滋賀県の大津市にドライブに行った時に、
偶然、義仲寺というお寺を見つけました。
境内に入ってみて
そこが木曽義仲にちなむ寺であったことを知りました。
義仲のお墓の横に松尾芭蕉のお墓が並んでいて
それが芭蕉の遺言だったことをも知りました。
義仲のお墓の横に松尾芭蕉のお墓が並んでいて
それが芭蕉の遺言だったことをも知りました。
芭蕉さんは木曽義仲のことが
大好きたったのです。
生涯、自然を愛した芭蕉さんは、
自然児がそのまま大きくなったような
裏表がなく、そして結局は生き下手だった
義仲の性格を愛したのでしょう。
大好きたったのです。
生涯、自然を愛した芭蕉さんは、
自然児がそのまま大きくなったような
裏表がなく、そして結局は生き下手だった
義仲の性格を愛したのでしょう。
義仲寺でいただいてきた資料に、
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と
詠んだ一句があったことを思い出しながら
義仲の最期のくだりを読みました。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と
詠んだ一句があったことを思い出しながら
義仲の最期のくだりを読みました。
去年書いた義仲寺についての記事はこちらです。^^
