今回は幕末に活躍した新撰組ゆかりの地、壬生(みぶ)に行ってきました。
四条通りを西に進み、大宮を過ぎて少し進むと壬生という地名の場所があります。
この日は壬生寺、八木邸、前川邸を見て回りました(前川邸は外観だけ)。
 
新撰組は幕末、将軍が上洛(京都に行くこと)する際の警護のために集められた
浪士隊が前身です。この浪士隊は、いろいろあって京都に着いてから分裂することになり、
京都に残った一部が京都守護職松平容保のお預かりとされ結成されました。
京都守護職というのは警視庁長官のような立場。
彼らはいわゆる幕府の警察部隊だったのです。
幕末の京都は開国派とそれに反対する攘夷派に分かれ、大変物騒でした。
今読んでいる「竜馬がゆく」に出てくる登場人物たちは殆どが皆、
この新撰組にとっては「敵」という位置づけです。
 
新撰組のメンバーももともとは浪士のあつまり。
壬生にその屯所があったことから当初は「壬生浪人」と軽く見られていたそうですが、
その後の活躍すさまじく、いつの間にか「浪人」の「浪」が「さんずい」から
「けものへん」の「壬生狼人」と呼ばれるほど、恐れられる存在になったそうです。
 
新撰組を一躍有名にしたのが「池田屋事件」です。
当時の長州藩過激派浪士が天皇を長州に拉致するという計画を立てていました。
その会合が行われたのが木屋町三条の池田屋です。
この会合を察知した局長の近藤勇らが、その夜池田屋を襲撃し、7人を惨殺、23人を捕縛しました。
 
 
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ここは八木邸といって新撰組発祥の地とでもいうのか
初期の頃の新撰組の隊員たちが宿所としていた邸宅です。
 
入口で入場料を払って、一定数の人数が集まったところで
邸内を案内してもらいます。
私たちのグループはだいたい10人くらいでした。
家はこの地に代々続いており、現存する邸宅も築200年になるとのことです。
 
奥座敷にあがり、案内の方のお話を聞きました。
そのお部屋は、新撰組の初代局長芹澤鴨という人が内部分裂のごたごたの末、
暗殺されたという部屋でした。
芹澤は大変粗暴な人物だったらしく、普段の行いも悪く、一般の人にも危害を加えたりしていたので、
これでは新撰組の評判が落ちると危惧した仲間らに寝こみを襲われ殺されてしまったそうです。
 
芹澤を殺したと言われるもう一方のグループの
近藤勇や土方歳三らは多摩の百姓身分の出身。比べて芹澤鴨は武家出身。
同じ志を持つもの同士とは言え、気分的に彼らを見下すところがあったのだろうし、
近藤勇らとしてもそれを感じていたのではないかと思います。
互いの心の中には複雑な感情が入り乱れていたのではないかと。
 
 
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これはいただいてきたパンフレットの写真です。
芹澤鴨が寝ていたのは一番奥の間。
その横に奥さんというか愛人というか、相手の女性が寝ていて、
屏風を隔てて平山五郎らが寝ていました。
刺客に襲われた芹澤鴨が驚いて隣の間に逃げようとした時、入口にあった
文机に躓いてしまい、そこでとどめを刺されたそうです。
鴨居にはその時の生々しい刀のあとがそのまま残っていましたし、
芹澤がつまづいたという文机は当時のものが同じ場所に置かれていました。
 
現当主のひいおばあさんが当家に嫁いできたとき、まだ柱や天井には
血の跡が残っていたとか。幕末のあの時代を覆っていた不穏な空気を感じる話ですね。
 
芹澤一派等が粛清され、新撰組は局長近藤勇、副長土方歳三の体制が確立されます。
彼らが一番活躍したのが池田屋事件の頃でした。
新撰組も多い時は200人を超え、結成されてから3年後には屯所は
別の場所に移動することになりました。
しかし、その後、時勢は倒幕へ向かいます。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍に参加していた近藤勇は
幕府軍が負けたあと、板橋で斬首、土方歳三も五稜郭外での戦闘で戦死しました。
 
倒幕側、幕府側それぞれに分かれて血を流しあった彼らの多くは非業の中に斃れました。
どちらもみな己の信ずるところに従って、それが正しいと思って行動したのだと思います。
 
すぐ近くの壬生寺には境内に壬生塚と呼ばれる新撰組関連の遺跡があり、
局長近藤勇の胸像、また屯所で殺された芹澤鴨や平山五郎らの墓、
池田屋騒動で亡くなった隊士の合祀墓などがありました。
7月16日池田屋騒動の日に隊士の慰霊供養祭が行われているようです。
近藤勇は口が大きくて、げんこつが口の中に入るほどだったそうですよ!
 
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