先日、大津にドライブに出かけた時、なにげなく目についた
お寺に寄り道してみました。
お寺に寄り道してみました。

ふらっと入ってみた義仲寺(ぎちゅうじ)は、あの木曽義仲公の墓所があるお寺でした。
木曽義仲は源頼朝&義経の従弟にあたります。
義仲は治承4年(1180年)、平氏討伐のために挙兵し、北陸路で兵士の大軍を打ち破り、その後京都に入りました。
でも京都に入ってからは皇位継承問題に介入したり、京都で義仲の軍が狼藉を働いて治安は一層悪化しました。この人は武士としては勇猛果敢な人だったみたいですが、荒っぽい性格は政治家には不向きだったようです。
その後、頼朝の命を受けて都にのぼってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、この地で討ち死にしました。
まだ31歳の若さだったのです。

狭い敷地です。田舎なら庭付き住宅一軒分くらいの広さかもしれません。
この中に小さいですが資料館や義仲をはじめとするいろいろなひとのお墓、
(松尾芭蕉のお墓もここにありました!)、お堂、松尾芭蕉にちなむ無名庵、
翁堂(祭壇がありました)、池、八幡社、たくさんの句碑などなどがありました。

これが木曽義仲公のお墓。
いただいてきたパンフレットに松尾芭蕉の読んだ句が印刷されていました。
義仲の寝覚めの山か月悲し
芭蕉が奥の細道の旅の途中、源平合戦のあった越前 燧ヶ城で詠んだ句です。
芭蕉さんは木曽義仲のことが好きだったみたいですね


巴御前は木曽義仲公の恋人だった女性です。
女性ながら馬にまたがり、武勇すぐれ、男の人を相手にしても平気で投げ飛ばしたところから柔道の巴投げという名前がつけられたそうです。
義仲が亡くなった後、見目麗しい尼僧が義仲の墓所の近くに草庵をむすびお墓の供養をしたという話があり、それが彼女だったとか。
義仲寺は別名、巴寺とも呼ばれているそうです
乱暴で粗野な性格といわれながらも、芭蕉さんが同じところにお墓を求めたり、
こうやって巴御前が供養しつづけてくれたりしたところをみると
政治的に動き回れないピュアな部分がその人間の中にあったのではないかと思います。
後世にも木曽義仲のファンが多いのもこういうところに彼の魅力があったのかもしれませんね。