
実はお目当ての餃子屋さんを探していた時、道を間違ってたまたま信号待ちしていた時に見つけたところです。
犀ヶ崖は地図でみると浜松城の左斜め上、1キロくらいのところにある切り立った崖です。1200年ほど前の地震でできた断層なのだそうです。
見下ろすと鬱蒼と茂った木々に覆われた崖があります。いただいてきた資料によると長さ約116m、幅約29~34m、深さ13mとのこと。

犀ヶ崖という地名、どこかで聞いたことがあるなあと一瞬思いましたが、思い出しました。
若き日の家康が武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦いに登場した場所です。
今は住宅街の中にあってそれほど目立つ崖でもありません。三方ヶ原の戦いの時、徳川軍はこの裂け目に大きな布を張って橋がかかっているように見せかけ、武田軍をここに追い落としたという伝説があるそうです。

多くの武田勢が混乱の中、ここで死んでしまったため、その後、夜になると人馬のうめき声が聞こえたり、イナゴが大発生して作物に大被害が出るなど、死者のたたりかと思われるような怪現象が続いたそうです。
このため家康は三河から僧侶を招いて七日七夜、鉦と太鼓を鳴らして供養し、無事祟りは鎮まったそうです。
以降、遠州各地で大念仏が盛んに行われることになったとか。


資料が多く展示されていました。
三方ヶ原の戦いは慎重な家康が珍しく無茶をして惨敗を喫した戦いだっただけに、当時の家康の慌てぶりやその時の逸話を伝える話が多く残っているようです。

ビデオ映像を見せてもらいました。
資料館の方が丁寧にいろいろと説明して下さいました。
これは明治の頃に陸軍が作った浜松市の地図をもとに作成されたものだそうです。
手前左側の小さな湖は佐鳴湖です。
信長に謀反の疑いをかけられた家康の正室、築山殿が
家康の部下だった野中重政により斬殺されたのがこの近くです。
そしてこの地図の斜め右上、
川の上流あたりに二俣城跡があります。
家康の長男信康が同じく武田方と通じたとの疑いをかけられ、切腹を命じられた場所です。
自分の妻や息子を自らの手で殺さなければならなかった
家康の苦悩はどれほど辛いものがあったでしょうか。

家康の優秀な息子に警戒した信長が、家康の忠誠を試すために
命じたものかも、と資料館の方が説明して下さいましたが、
戦国の世の哀しさを想わずにはいられません。
敷地内にはこんな看板も。
本多肥後守忠真は、徳川四天王のひとり、本多忠勝の叔父にあたる人です。三方ヶ原で大敗した徳川軍の殿隊を買って出て、自ら敵型に斬り込みこの地で討ち死にしました。
また夏目次郎左衛門吉信、この人も家康の部下で、戦いの時に武田兵に追い詰められた際、家康の身代わりとなって討ち死にしてしまいました。この夏目家の家系からあの明治の文豪、夏目漱石が出ているそうです。
この辺は家康ゆかりの名所が多くあります。
次回、浜松に行くことがあればゆっくり散歩してみたいですね。