随分昔のこと。
休暇を取ってタイに2週間ほど旅行したことがあった。

泊っていたバンコクの安宿には、そこにはちょっと似つかわしくないカウンターのバーがあった。
そこでお酒を飲んでいたある夜のこと。

私の左側に欧米系の中年男性と若いタイ人の女性のカップルがいた。
男性はバーテンダーに向かって、一方的にべらべらとまくしたてるようによく喋っていた。
聞こえてくる話の内容は、正直なところ、全く中身のないつまらないことばかりだった。
男性の隣にいた女性は腰まであるストレートの黒髪をしていた。
彼女は男性にしなだれかかるようにべったりと肩と腕にもたれていた。

でも男性は彼女のほうを全く見ようともしない。喋り続けながら彼の視線は
目の前のお酒かバーテンダーか他の客達の間を行ったり来たり・・という感じだった。

隣に私が座っているのに気づいて、その男性は私にも声をかけてきた。
酔っぱらっているのか満面の笑顔で、どこから来たのか?とか何日バンコクにいるのか?とか
そんなことを訊いてくる。
そして、こちらから尋ねてもいないのに勝手に自分のことを私に向かって喋り始めた。

私は相手の女性のことが気になった。普通カップルで店に行って自分のパートナーが他の女性に
デレデレと話しかけたら女性は決していい感情は持たないはず。
そう思って私は彼との話もなるべく控えめにしていた。
でも男性が女性のほうを見ようともしないのと同じように、
その黒髪の女性のほうも男性の言動に関しても全く無関心な様子だった。

私は男性と喋りながら、気になってついチラチラと彼女のほうを見てしまった。
彼女は黙って男性の肩に頭をもたせかけてどこか違うところをぼんやり眺めていた。
表情には笑みも、不満の色も、全くない。瞬きさえしないのかと思うくらいぼんやりした目。

私の視線に気づいたのは男性のほうだった。
すると、いきなり、その女性をとても乱暴なやりかたで持ち上げて
あっという間に自分の膝の上に載せてしまった。
スカートがはだけて太ももが露わになっている。

でも彼女は「きゃー」とも何とも言わない。
それまでと同じ様子で男性にだらりともたれかかり、腕を相手の首に絡めていた。
やっぱり一言もしゃべらない。スカートの乱れも全く気に留めていないかのよう。
相変わらず男性のなされるがままになっている。

少しして、二人は部屋に戻っていった。
というか私の目には男性が女性を半ば引きずるような形で連れていったように見えた。
それに全く抵抗することなくお人形のように引き摺られていった彼女。

周囲の目にはあの二人よりも、私の表情がよっぽど驚いているように見えたのだろう、
近くにいた別の客が私にこう言った。
「あの男性はここのホテルに滞在する間はずっとあの女性をレンタルしてるんだよ」

その時の私の感情は
もう余りよく覚えていないけれども
とても嫌なものだった。
気持ちがずしんと重く、暗くなるような、
胃の中がむかむか・・とするような感じがした。

春を鬻ぐ女と購う男。
今でも忘れられないのはあの中年男性のなんともいえない野卑な笑み、
それからまるで人形のように扱われていた彼女の目。

彼女の目の中に私が見たのは
真っ暗な闇。