地味に読み進めている「徳川家康」の読書、11巻目「龍虎の巻」を終えました。
戦国の時代は女性も大変。
大名の家のお姫様に生まれて絢爛豪華なお屋敷に住まっていても、
結局は、政略の道具に使われるための生に過ぎません。
戦国の時代は女性も大変。
大名の家のお姫様に生まれて絢爛豪華なお屋敷に住まっていても、
結局は、政略の道具に使われるための生に過ぎません。
天下統一まであと一歩と迫った秀吉は自分の妹の朝日姫を仲睦まじくしていた夫と
無理やり離縁させ、家康の正室として嫁がせます。
悲嘆に暮れる朝日姫、憤懣やるせなく自死してしまう夫の佐治日向守秀正。
一方、徳川方では石川数正が、家康への忠誠のため出奔します。
心が安らぐ時のない戦乱の世は辛いものですね。
無理やり離縁させ、家康の正室として嫁がせます。
悲嘆に暮れる朝日姫、憤懣やるせなく自死してしまう夫の佐治日向守秀正。
一方、徳川方では石川数正が、家康への忠誠のため出奔します。
心が安らぐ時のない戦乱の世は辛いものですね。
この11巻目で家康が世継ぎの長松丸(のちの秀忠)に大将としての心得を説く場面があります。
大将と家来の関係を、現代の企業組織の「上司」と「部下」に置き換えてみるとわかりやすいのではないかと思う会話でした。
大将と家来の関係を、現代の企業組織の「上司」と「部下」に置き換えてみるとわかりやすいのではないかと思う会話でした。
一部抜粋すると・・・・
「大将というものはな、敬われているようでその実、家来に絶えず落度を探されているものじゃ。恐れられているようで侮られ、親しまれているようで疎んじられ、好かれているようで憎まれているものじゃ。従って、家来というものは禄でつないではならず、機嫌をとってはならず、遠ざけてはならず、近づかせてはならず、怒らせてはならず、油断させてはならないものだ。」
それに対して長松丸が、では、どうしたら良いのですか?と尋ねます。
家康の答えは
「家来はな、惚れさせねばならぬものよ。別の言葉で心服ともいうが、心服は事理を超えたところから生まれてくる。感心させて感心させて、好きでたまらなくさせてゆくのじゃ」
「家来はな、惚れさせねばならぬものよ。別の言葉で心服ともいうが、心服は事理を超えたところから生まれてくる。感心させて感心させて、好きでたまらなくさせてゆくのじゃ」
・・という感じで家康の話が続きます。
大将の心得として、行住座臥すべてが家来と違わなければならないこと、家来よりも早く起き、働き、体力も、辛抱も、倹約も、思いやりも家来以上であること・・。
大将の心得として、行住座臥すべてが家来と違わなければならないこと、家来よりも早く起き、働き、体力も、辛抱も、倹約も、思いやりも家来以上であること・・。
ああこの人なら、と思わせなければいけない、と説くのです。
社会で働く限り、上司であっても部下であっても、それぞれに背負うものがあるわけですね。
社会で働く限り、上司であっても部下であっても、それぞれに背負うものがあるわけですね。
この長い小説を半分近くまで読んできて、最近しきりに思うのが、「人間の器」というものについてです。
よりよくありたい、自分の立場を高めたい、という向上心は当然持つべきであると思うのですが、
同時に自分の器がどの程度のものかということを客観的に知っておく必要もあるのではないかと思います。
よりよくありたい、自分の立場を高めたい、という向上心は当然持つべきであると思うのですが、
同時に自分の器がどの程度のものかということを客観的に知っておく必要もあるのではないかと思います。
一大名なら、素晴らしいお殿様であったかもしれないのに、
「自分は天下をとれるはず」と、自分の身の丈以上の野心を持ったがために
結局は自分の身を滅ぼす悲劇を招いてしまう武将がたくさん出てきたからです。
「自分は天下をとれるはず」と、自分の身の丈以上の野心を持ったがために
結局は自分の身を滅ぼす悲劇を招いてしまう武将がたくさん出てきたからです。
無理して上に行ったとしても、その立場や責任が自分の能力以上のものであり、それが
努力で補えないものだったとしたら、辛くて苦しいだけ。
自分の身の丈にあった生き方というのが一番幸せなのかもしれませんね。
平凡ですが、こんな感想でした。
努力で補えないものだったとしたら、辛くて苦しいだけ。
自分の身の丈にあった生き方というのが一番幸せなのかもしれませんね。
平凡ですが、こんな感想でした。