オーストラリアにいたころ、現地でハムとかソーセージを作っている
食肉加工会社で通訳の仕事を頼まれたことがある。
日本から見学にきていた畜産関係者の方々への通訳だった。

ハムとかソーセージの原材料は何か。
牛や豚などである。
通訳の仕事は屠場で動物が屠殺されるところから始まった。
こうした場所ではこういう光景が日常になっているのだろうけれど本当に怖かった。

列に並んだ動物の頭に順番に強い電流を流して動物が気絶した瞬間、
次に待ち構えている人が喉元から腹部にかけて一気にナイフを入れる。
ものすごい早業だ。
血を抜く作業が終わったら次の工程に流され、皮をはがす工程、
更に解体する行程を経て、動物はどんどん小さな肉の塊になっていく。
塊が小さくなるにつれ、スーパーで陳列されているような
見慣れたものに変わってくる。

あとのほうになるほど、日常で見かける食材という感覚になり、
気持ちも楽になってきたが
最初の電気ショックをあてるシーンだけはいまだに思い出すと
心臓がぎゅっと痛くなる。

並ばされた動物たちは、目の前の仲間が次々と倒れていく姿をみて
観念しているのか、おびえ切っているのか、ものすごくおとなしかった。
でも、時に例えようもない悲鳴が聞こえてくる。

あの仕事のあと、私はひと月ほど、肉が食べられなかった。
あんな残酷な目にあわされた牛や豚や鶏の肉を
口に運ぶということを考えただけで
気持ち悪くなって仕方がなかったから。
同時に罪悪感が自分から離れなかった。

でも今は、普通に肉が食べられる。
人間ってなんとも残酷なものだなあと思う。

あの仕事をして自分の中で何かを学んだことといえば
自分たちの生命というのは
他の幾多の生命の犠牲の上に成り立っていることではないかということ。
食べ物を粗末にしてはいけないという理由はそこにあるのではないか。