マンマ・ミーア
ABBAの名曲で綴るミュージカルの映画版です。
ミュージカルを見た後は心がわくわく高揚して
ハッピーな気持ちで劇場をあとにするものですが
この映画もまさにそんな作品でした。
お薦めです。

関係ないですが私が90年代の殆どを過ごした
オーストラリアではABBA人気が異常に高くて
CDやレコードは本国スウェーデンに次いで売れているそうです。
職場のクリスマスパーティでも毎年、大きなホテルの
バンケットルームを貸し切って夜明け近くまで
ABBAの曲をかけて飲んで歌っての大騒ぎしていたものです。
映画の中のパーティシーンを観ていて楽しかった
あの頃のことも一緒に思い出しました。


チェ・ゲバラ 別れの手紙

この作品は前編と後編の両方をみて、ひとつの作品になっていると思います。
追い風を受けて革命への道を突き進む右肩あがりの前編とは対照的に
屋台の支えが、ひとつひとつ、ぽろぽろと外れて、最後に崩れ去ってしまう
まるで坂道を転げ落ちていくような後編。
ボリビアにはカストロに相当する人物が存在しなかったことと、
この国の民度というか、時代の空気がキューバのそれに比べて
革命を熱望するレベルに熟していなかったことが
かなしい結末の原因だったのか。
私にとってはこの映画は知らなかった中南米の近代史への
興味をもつきっかけになりました。



ベンジャミンバトン 数奇な人生

80歳の年老いた身体で生まれて、日を追うごとに若返っていく男性。
時計の針の進みにあわせて老いていく周囲の人たちとの数々の出会いと別れ。

時は必ず移ろうもので、そして過ぎてしまった過去は永遠に取り戻せない
ということを改めて感じました。
だからこそ、私たちは今この一瞬一瞬を大事に生き、
自分のまわりにいる人たちのことを大切にしなくてはいけないのではないかと。

このストーリーの中に
「あの日、あの時、あの場所で・・・しなかったら」
・・・その人の人生は変わっていただろうという場面がありました。
私たちが生きている日常も全く同じことですね。
偶然の積み重ねでできている。誰かとの出会いも無数の偶然が
重なった結果の出会いであり、何かひとつのきっかけがずれていたら
今の現実は違ったものになっていたのかもしれないのです。

最後はちょっと切なかったですが、美しい映像とともに余韻が残る
いい作品でした。


レボリューショナリーロード

周囲からは自分たちは憧れの夫婦に映っていると思いつつ、
夫も妻も、本当は満たされないことを自覚しながら日々を送っていて
最後はかなしい結末を迎えてしまいます。

このストーリーの中でお互いがことあるごとに
「愛している」「愛している」と言い合うのですが
私にはこれがどうも空しく聞こえて仕方がありませんでした。

結局のところ、最初から最後までこの二人は
本当に相手のことを愛していたことは一度もなかったのだと思います。
愛していたのは「あなた」ではなくていつも「自分」。
だから自分のエゴを通すことを何よりも優先して
大ゲンカして罵りあって、の繰り返し。

素敵な家に住んで子供にも恵まれて旦那さんも立派で
条件だけみていれば幸せ・・なはずなのですが、
妻の表情には一度として心から幸せを実感しているものが見えませんでした。

彼らを称賛する人たちも本音は全然違ったところにあったり、
夫婦二人が拠り所としていた「自分たちへのあこがれ」は実は
実体も何もない幻みたいなものだったのではないでしょうか。



チェンジリング

1920年代のアメリカで本当にあった話なのだそうです。
ある日、子供が行方不明になってしまう。数ヶ月後に戻ってきた子供は
全くの別人。でもその子は自分を母親と呼ぶ。
その裏にあったLA警察の腐敗と汚職の存在が後々明るみに出るのですが
ロサンゼルス市警というのは本当にひどいものだったのですね。
ほかにもLA市警の犯罪とのつながりを描いた作品を以前に観たことがありますが
こんなのばかりだったら、何が正義かわからなくなりますね。

ただ今回も思ったのですがアメリカという国では
とんでもないひどい犯罪が起こったり、腐敗や社会の悪が存在する一方で、
それを正そうとする180度反対の人たちが必ず出てくるところ。
これは多民族、多宗教の人たちがともに生き、
さまざまな価値観が存在している国家の良い部分なのではないかと思います。
逆に日本のような国では誰かが、右!といえば
国家総出で右側に動いてしまう。
一方向への傾斜を制御するものがなかったりあっても潰されてしまったりして。

監督はクリント・イーストウッド。
この前にみた硫黄島からの手紙同様、素晴らしい作品だったと思います。
あと当時の働く女性の姿とか、街の様子、服装など時代考証も大変興味深かったです。