めったにドラマを観ないのですが
この週末は二夜連続で放映された「氷点」を観ました。
この週末は二夜連続で放映された「氷点」を観ました。
キリスト教の教えの本質である「赦し」がテーマとなるストーリーであり、
人を赦すこと、愛することとはどういうことなのか、と改めて自身に問いただしたくなる話でした。「氷点」は学生時代に原作を読んで大変感銘を受けた小説で、記憶にある原作のストーリーを思い出しながらドラマを追いかけて観ていました。
人を赦すこと、愛することとはどういうことなのか、と改めて自身に問いただしたくなる話でした。「氷点」は学生時代に原作を読んで大変感銘を受けた小説で、記憶にある原作のストーリーを思い出しながらドラマを追いかけて観ていました。
ここから話が突然、オーストラリアに住んでいた頃に飛びますが、シドニーに住んでいた頃、何度か「衝撃的」ともいえるほどの文化的差異(まさにカルチャーショックというやつです)を目のあたりにして非常に深く考えさせられたことが何度かありました。
治安が良いと思われているオーストラリアでも実際暮らしてみると結構物騒な殺人事件とか頻繁にあります。突然の悲惨な事件の報道に胸を痛めた一方で意外な思いをすることが何度かありました。
事件直後に、遺族へのインタビューが新聞記事に掲載されていたり、ニュースで報道されたりするのですが、その中で「犯人をどう思うか」という質問に対して遺族の口からきっぱりと
「私は犯人を赦します。亡くなった○○は今まで幸せな人生でした。犯人が神様から救われますように」
とか
「犯人を憎んではいません。犯人を赦します」
とわが耳や目を疑ってしまうような信じられないセリフが出ることでした。
でした。
言葉にならないという。
私の頭の中では
という大きな疑問符がぐるぐると渦巻きました。
普通、家族や恋人や友人や自分の大切な人の命が突然奪われたら
その命を奪った犯人が憎いでしょう?
それが普通の感情ではないのか?と。
なんでそんな人のことを「許せて」、
それだけではなく
「神様に救われますように」などと
犯人をいたわる言葉までが被害者の遺族の口から出るの????
と思うわけです。
その命を奪った犯人が憎いでしょう?
それが普通の感情ではないのか?と。
なんでそんな人のことを「許せて」、
それだけではなく
「神様に救われますように」などと
犯人をいたわる言葉までが被害者の遺族の口から出るの????
と思うわけです。
日本で同じような事件が起こったら遺族は「犯人を死刑にしても足りないくらいです」とか、「犯人に殺された息子と同じ思いをさせてやりたい」とか絶対言うでしょう。
私だってきっとそう言いますよ。
私だってきっとそう言いますよ。
私がシドニー滞在期間中に日本に住んでいた頃には想像もしなかったような
記事、テレビのインタビューに接したのは一回や二回ではありませんでした。
もちろん、犯人に対する非常な憎しみの言葉を発する人も多かったです。
でも何人かに一人の確率でこういう言葉を表明できる人がいる、
そこに日本とキリスト教の国の違いを感じたのです。
記事、テレビのインタビューに接したのは一回や二回ではありませんでした。
もちろん、犯人に対する非常な憎しみの言葉を発する人も多かったです。
でも何人かに一人の確率でこういう言葉を表明できる人がいる、
そこに日本とキリスト教の国の違いを感じたのです。
学生時代に暇に任せて聖書を読んだことはありました。
「氷点」「続・氷点」を読んだ時にも、それはそれで大変感動しました。
でも聖書に書いてある話は知識としては身についていても、それが自分自身の血となり、肉とは当然なっていなかったわけです。
三浦綾子さんの「氷点」を読んでもそれを傍観者として捉えている限りは、主人公に同情したりはしても、本当に理解はしえていなかったと思うのです。
「氷点」「続・氷点」を読んだ時にも、それはそれで大変感動しました。
でも聖書に書いてある話は知識としては身についていても、それが自分自身の血となり、肉とは当然なっていなかったわけです。
三浦綾子さんの「氷点」を読んでもそれを傍観者として捉えている限りは、主人公に同情したりはしても、本当に理解はしえていなかったと思うのです。
外国に住んで、陰惨極まる殺人事件の際に遺族から発せられた「犯人を赦したい」という言葉に何度か遭遇するうちに、ふと、
ああ、キリスト教の教えとはこういうことなのか、と。
それまで単なる知識としてしか頭に入っていなかった聖書の言葉がすごく鋭敏に自分の心に突き刺さるように伝わってくるのを感じました。
ああ、キリスト教の教えとはこういうことなのか、と。
それまで単なる知識としてしか頭に入っていなかった聖書の言葉がすごく鋭敏に自分の心に突き刺さるように伝わってくるのを感じました。
遺族の方だって、言葉にしようもない、ものすごい苦しみを感じたはずだと思うのです。それが人間としての当然の感情であるはずだし。
でもこんなにもはっきりとマスコミに向かって犯人を赦すことを明言していることは、私にとって衝撃であったわけです。宗教というのは生まれた頃から空気のよう個人の周囲を覆っていて、別に毎週日曜日に教会に行ってお祈りとかしなくても、呼吸するかのようにその教えを自身の肌の中に取り込んでいっているのでしょう。
でもこんなにもはっきりとマスコミに向かって犯人を赦すことを明言していることは、私にとって衝撃であったわけです。宗教というのは生まれた頃から空気のよう個人の周囲を覆っていて、別に毎週日曜日に教会に行ってお祈りとかしなくても、呼吸するかのようにその教えを自身の肌の中に取り込んでいっているのでしょう。
今でも「赦す」ということについて考えることがあります。
連日報道される悲惨な事件を耳にしていて、自分が当事者となったら
どんなリアクションを取るだろうかということも。
やはり私自身は犯人を責めて恨んで憎むと思います。
連日報道される悲惨な事件を耳にしていて、自分が当事者となったら
どんなリアクションを取るだろうかということも。
やはり私自身は犯人を責めて恨んで憎むと思います。
別に日本の文化が野蛮でキリスト教文化が高尚といいたいわけではなくて
一般の人の肌に沁み込んでいる宗教観というのは、時にこんなふうに顕在化するのだということ、
あくまでも「文化の違い」を肌で感じた自身の経験、上に書いたような考え方をする人も世の中には多いのだということ、それについて書いてみました。
一般の人の肌に沁み込んでいる宗教観というのは、時にこんなふうに顕在化するのだということ、
あくまでも「文化の違い」を肌で感じた自身の経験、上に書いたような考え方をする人も世の中には多いのだということ、それについて書いてみました。