実際母の元に戻るまでは四年かかりました。
私が名古屋へ行った後、母は喫茶店をたたみ、祖父からの借金返済のために韓国へ。
韓国には祖父が経営する銭湯があり、そこの手伝いをする事になったのです。
日本ならまだ電話も気軽にできますが、韓国語の分からない子どもの私には国際電話をかけることもできず、お金がたくさんかかるのだという事は理解していたので、「かけたい」と言う事もできずにいました。
元々持っている「相手の出方を伺う」という気質に加えて筆無精だったせいか、「手紙出したい」などと頼む事もできなかったのでした。
最初は楽しかったけれど、段々と事態を掴んで来た私は、元々の夜更かし習慣と不安定さから深夜3時だったり、はたまた白んでくるまで起きているという生活をするようになっていきました。何故こんな事になったのか、母は結局私を見放したのかという思いや寂しさから死を欲するようにもなり、三階の自室の窓を開けて、首を出して下を眺めて過ごすなど、もし大人が見たら胸が詰まってしまうような姿の子どもだったと思います。いつも生と死を眺めている、そんな11歳でした。
中学一年当時はヤンキー全盛。
少し擦れている同級生の女の子に自分の事情を打ち明けると、彼女は「なんでそんなんなのに不良にならないの?」と言いました。
「そんなん、自分が損するだけじゃん?」
「ってかじゃああんた別に両親も揃っててなんでワルぶってんの?」
どういうわけか既に私は、極々冷静に物事を見る質だったようです。
元々の気質なのか、環境がそうさせたのかは分かりませんが、あまり思い詰めてしまうと苦しみが増すだけだという持論を持ち合わせていた事は覚えています。
しかしそれが後、自分の痛みには鈍感で、痛みを蓄積して我慢してしまう性質を作り上げる事になります。
目を背けているだけで、解消のされない痛みを抱えていく。そしてそれを美徳と思い、むしろ素晴らしい事だと讃えていく。
目を向ける痛みから、そしてその先に待ち構えている見つめるべき痛みから逃げているだけなのに。
いよいよ四年が経ち、母の元へ戻る時が来ました。
戻った時に私は、何かよく分からない感覚を覚えました。
「ママと接するって、こんな感じだったっけ?」
子どもにとっての、しかも思春期という多感な時期を離れて暮らしていた四年間というのはとても大きな空白だったようで、どう接していいか分からなかったのです。
そして母にも、不在の間に初潮も迎え大人びてきた娘との接し方に戸惑いを感じている節がありました。
その小さな不協和音が、すれ違いを生んで行くのでした。
私14歳、母41歳。