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昨日8月6日は広島に、そして迎える9日は、長崎に原爆が投下された日です。


広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型と違うタイプの原爆でした。

これが意味するものは、「実験」ですね。

単なる攻撃だけならば、同じタイプでもかまわないのでしょうけど、わざわざ違うタイプのものを用意するということは・・・、まぁこれはさておき。


さて、今年の5月には、アメリカのオバマ大統領が広島を訪れ、「核兵器なき世界の創設」という演説を行いました。


核兵器なき世界。

心からそうありたいと願うし、またいつかきっと、そういう時代を創らなければければならないと思います。


しかし忘れてはなりません。5月のオバマ広島演説以降、中国の領海侵犯が、以前より盛んに行われるようになったことを。


核兵器廃絶に向けての取り組みは賛成です。

しかし間違えてはならないのは、それに至るまでの過程、戦略および方法論です。


そう、平和を愛さない諸国民から、まずは核廃絶するべきなのです。

平和を愛さない諸国民は、通り一辺倒な核廃絶の動きをすれば、「シメシメ」と思うだけなのです。


その後のことは容易に想像がつくはずです。

つまり、「言うことを聞かねば撃つぞ!」と脅すか、実際に撃ってくるということです。


世界は未だ、平和を愛する諸国民の代表たる日本人のように、洗練されてはいないのが現状です。

誠に残念ながら。



そういう、未だ春秋戦国時代と、心において一向に進歩もせず、否むしろ、無神論共産主義を奉ずることによって、より残忍さと狡猾さを増した人たちが現実におり、その国々は、日本に向けて、既に200発もの核弾道ミサイルの標準を合わせているのです。


軽薄なヒューマニズムに酔っていては、正しい判断はできません。


徹底したリアリズムによって、50年後100年後も、平和を愛する諸国民の代表として、日本という国家が健全と存続することを念頭に置いた判断こそ、重要であると私は思います。


よくよく考えれば、表面上の数字の上だけの核削減など無意味です。

なぜならば、たった一発でも核攻撃があれば、それは人類にとってこの上ない悲劇の惨状となることは、世界史上唯一の被爆国である日本人なら、誰もが知っていることだからです。

そう、意味のない数字の上での核削減より、「どうやって、その悪魔の兵器を使わせないか」という観点から、すべての議論は始まらなければ、真の平和構築には無意味なのです。

むしろ!これまでの世界史の流れを見る限り、世界的な軍事力削減の動きのあった後には、それを上回る軍事拡張の動きや、大規模な戦闘行為や、独裁国家の誕生などを生んでおり、浅い平和主義的な運動は、その願いを逆行させる結果となっていることを、努々忘れてはなりません。

「どうやって使わせないか」

それは、使おうにも使えなくするか、または、使う気をなくさせるか、この二つしかないのです。


具体的には、日本も核防衛をした方が、現実的には核攻撃を受けなくなります。

核保有国同士は、核戦争はできないからです。


日本が核保有し、核防衛を決断できれば、50年後100年後において、日本という国家は確実に存続できているでしょう。


それ以外の選択では・・・、まったく未知数という他はありません。


そしてもうひとつ、それは今という時代そのものが持つ、神から人類に与えられた宿題を見抜くことだと思うのです。


今という時代の宿題は、結局のところ、


「人種の違いや民族の違いや、また宗教の違いなどによって、人間通しが殺し合いをすること、それは正しいことなのか?」


という神様からの問いかけに、人類がどういう答案を出せるのか・・・ということだと思うのです。


どうでしょうか?

違いますでしょうか?

この答案を出すには、結局のところ、「全人類」または、「地球人」という立脚点に基づいた、「正しさの基準」が、どうしてもどうしても必要なのです。


黄色人であれ、白人であれ、黒人であれ、仏教徒であれ神道者であれ、キリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、人類に違いはないけれども、小さな違いによって、人は憎しみ合い、殺しあうことをやめておりません。


このままでいいのでしょうか?

良いはずはないのです。


「全人類・地球人という立脚点に基づいた正しさ」とは、結局のところ、


「神とは何か」「人間とは何か」「生命とは何か」「人生の目的と使命とは何か」という、すべての人間の根源的な問いかけに、明確に答えられることなのです。


これがあれば、人間は憎しみを超えられるのです。

現代人はこれを見つけ出さなければならないし、なければ、創りださなければならないんです。


だからこそ、現代に、救世主が必要なんです。


それでは、またのお越しを。