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今日の記事は、前回記事と同じ聖徳太子の時代に着目します。
しかし今回は、通常の一般的な見方とは一風変わって、聖徳太子の外交政策を、遣隋使を送られた方である、随の立場から検証したいと思います。
日本史的に、この聖徳太子外交というのは、まぐれとしか見られていないと思います。
日本史の授業なんかでは、ビギナーズラックというか、「素人がなんと無謀なことを・・・」「結果が良かったから、まぁ良かったけど・・・」みたいな感じではなかったですか?
それは、「当時の日本は、遅れた国家である。」という思い込みから、発生していると思います。
聖徳太子の外交は、そのときの極東情勢から見て、実に理に適ったものなのですね。
沖縄与那国島の、海中遺跡
実際は、朝鮮半島南部に任那(みなま)もあり、大陸の情勢に関する情報は、相当ヤマトの国(倭国・日本)に入っていたと思われます。
有名な、日昇る国の天子、日沈む国の天子云々・・・の、超生意気と言われる聖徳太子の国書の件も、
歴史学者は、「こんなのヒヤヒヤものだよ~。」と思っているのが主流だと思います。
これは、中華=世界の中心・・・思想を知っているからこう思うのであって、ある意味で、毒されている・・・とも言えますね。
当時の日本は、この世界のこと全てを、【日の本=ひのもと】と読んでいたように思います。
日の本=お日様に照らされた世界・・・ですから、全世界ですね。
東西南北という概念は、余りなかったのかも知れませんね。
だとすれば・・・
東のことを、【日の昇る方】 一方、西のことは、【日の沈む方】と、単純に表現していただけかも知れません。
まあ、中華思想の国”隋”では、激怒したかも知れませんが、決してそれが、太子の生意気な態度であったかは、?です。
アモ~レは、日本(倭国)からの国書も、当時の隋にとっては恐らく、渡りに船ではなかったかと思います。
海の外に全く興味を持たないという、領土への嗜好を持つ中国の民族にとって、当時の日本は、領土的野心を持てない地域なのですね。
これは日本人には、不思議な感覚かも知れません。
しかし我々だでも、たとえば、海の底に暮らしている人たちがいたとしても、その海の底に対して領土的野心を持ったりはしないだろうと思います。
中国大陸の民族はそういう、海の外には無関心という発想をする、完全な大陸民族なのです。
(ここに、尖閣=中国領土説のウソの根源があります。)
ですから、当時の日本とすれば、隋は組んで損をすることのない国家なのですね。
なぜかと言うと、隋が日本に攻めたり、領土的野心を持つことはあり得ないからです。
当時の隋からすれば、日本は、ある意味でどうでもいい国です。
なぜならば、地続きではなく、海のお外にある国だからです。(笑)
しかし当時随は、とても困った問題を抱えていたのですね。
実は、隋は当時「高句麗=こうくり(コクリ)という、国境を接した朝鮮系国家に、とても手を焼いております。
4回戦争をして、全て高句麗が勝っているのですね。
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ですから隋にとって、当時の日本【倭国】との国交、しかも対等な立場での国交は、とてもありがたいことだったのです。
なぜなら、”同盟”と同じ効力を持ちますからね。
高句麗からすれば、勝ったとは言え、隋は強大な大国です。
その大国と、対等な国交を結んだ国家が、後ろに控えるわけですから、国際関係上、国家間の力学上は、大国に挟み撃ちに合うことになるのですね。
高句麗国からすれば、「あの、オレ様国家”隋”と、対等な外交をする国家”倭”とは、どんな強大な国家なのか?」と、当然疑うわけですよ。
こうやって、疑心暗鬼にさせるだけで十分なのです。
倭国(日本)も随にとっても、お互いにWinwinな外交なのですね。
それは、当時の日本も、朝鮮半島内の領地”任那(みなま)”が、周辺諸国にちょっかいを出されていたようです。
魏が滅んだので、卑弥呼外交が、期限切れになっていたのですね。
あの、遠交近攻外交のお手本のような、卑弥呼外交のことです。
そして、高句麗軍がとても強いので、ヤマトの国の困っていたのですね。
有名な”広開土王”(ペ・ヨンジュンが主役で、TV番組をやっていたあの朝鮮の王様です。)の時代あたりです。
何はともあれ、倭・随の国交は樹立され、遣隋使の時代に入るのですが、これを機に、朝鮮半島内の紛争は、ピタッと止まるのですね。
なんと朝鮮半島国家からは、倭の大和政府に、朝貢までありました。
朝鮮国家の立場で言えば、超大国に挟まれた格好になってしまったから、軍事的な動きそのものができなくなったのです。
聖徳太子の隋外交による効果はとても大きかったのです。
ともあれ、倭=隋とは対等の国家・・・という認識は、当時の東アジアにおいては、この認識で完全に一致させることができたのです。
そして、東アジアの平和的安定の時期は、隋が滅ぶまで続くことになりました。
これは奇跡の外交でもなんでもなく、当時の国際情勢をつぶさに検証すると、そうなるのがふさわしいものなのです。
聖徳太子がその、相応の外交関係に気づくことができた、または演出することができた、とても優れた政治指導者であったということです。
教科書の歴史では、「日本は遅れた小国」という認識だし、当時の日本人が、「東アジア情勢を知っているはずがない。」という、レッテルに基づいた発想をしているので、歴史の真意が見えないのです。
日本は縄文時代から続く、超海洋国家であり、朝鮮半島の任那は確実にありました。
朝鮮半島に居留地を持つならば、情報は絶対に入って来るのです。
聖徳太子の外交は、超高度な判断です。
少なくとも、結果だけを、素直な正直な眼で評価するならば。
「まぐれ」だとか、「無茶」だとか言うのは、「そんな判断ができるはずがない。」という、単なるレッテルに過ぎないのです。
この超大国との対等な外交関係・・・という、太子が創造した外交政策は、現代でも大変重要な外交政策の基本であり、忘れてはならない貴重な学びであるとアモ~レは思います。
それでは、またのお越しを。(^O^)/