全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/


本日横浜正心館で開催された、大川隆法総裁ご法話、「正義からの発展」、もうお聞きになりましたか?

お聞きでない方は、もよりの支部や精舎で、録画拝聴してくださいね。



           幸福の科学グループ 大川隆法総裁


今、世間を騒がしている、中東での日本人人質事件に関する、大川隆法総裁の見解が山盛りです。


あんまりネタばれしてはいけませんので、それに気をつけながら記事を進めてまいりますけれども、今回の中東人質事件に関する、今の日本に欠けているものとして、「価値」というものを表明できない日本の姿があると思うのです。


今回のご法話を拝聴して、アモ~レは痛感しました。


報道を見ても、安倍首相はじめ、政府の要人の話を聞いても、どこにも「価値判断」がないのです。


これを大川隆法総裁は、日本教と喝破なさいました。

(以下太文字が、大川隆法総裁のお言葉。如是我聞)


「価値判断を含んだ、メッセージを発信しないとダメだ。」

「そうでなければ、世界のリーダーになれない。」


命が助かれば良い。

生きながらえればいい。

嵐が過ぎ去るまで、とにかく耐えて黙っている。


そういう風潮が、日本文化にはあります。


「それでは、世界では通用しない!」

「日本人の常識は、世界では意味不明なのです。」


まったくおっしゃるとおりだと、アモ~レは思いました。


「正義は、2つあります。」

「神の正義と、人間がつくった正義です。」

「その相克が、今の世界の争いの要因です。」


政治力学上、また歴史的背景から、欧米諸国とイスラム諸国の仲介ができる立場にあるのは、今のところ日本しかありません。

しかしその現代日本は、価値を含んだメッセージを、世界に発信できないでおります。


世界が求めているのは、世界規模、地球規模での神の正義なのです。



「大川隆法総裁は、現代の日本を、価値判断できる国に導こうとしていらっしゃる。」

アモ~レはそう思いました。


現代日本人は、とかく正義の判断を嫌います。

もめごとが嫌いで、「まぁまぁ。」と、なんとなくまとめようとします。


正義かどうかの判断を嫌うのは、正義には価値判断が伴うからです。

それはまた、日常的なアモ~レも、日本教徒の一員でもあると反省しました。



価値判断を下すには、論理的思考が必要です。

論理的思考を鍛えるには、一定の価値を元にした、信仰教育がどうしても必要なのです。


何が神の理に適い、何が神の思いに背く思いと行いなのか。

その返答の期日は、刻一刻であり、日々一瞬であります。

日々神のテストであり、それは、返答者の成長を待ってはくれないのです。


経典や聖書などの、神仏の価値を含んだ書物を精読し、この問いに答えを出していく作業において、論理的思考は鍛えられるのです。


文章を読み込み、呻吟(しんぎん)し得られるものが、論理的思考です。
論理とは要するに、「重要なものと、重要でないものを分別すること」そして、「重要度の高いものと、低いものを分別すること」と言えると思います。

宗教の文章、つまり経典には、必ずあるものが存在します。
それは、その宗教で描かれている神様仏様が、何を以って価値あるものだと見出しているかです。
つまり、善悪です。
宗教経典には必ず、善悪の価値観が存在するのです。

つまり、経典を読み、そしてそれをさらに読み込むことで得られるものは、善悪の価値であり、さらに善の程度、そして、悪の程度が理解できるのですね。



犯罪であっても、それが罪なのか無罪なのかだけでなく、国家反逆罪や強盗殺人のような凶悪なものから、軽犯罪にいたるまで様々にあります。


このように、この世における様々なできごとの中で、それが神仏の視点に立ったとき、これらのできごとは善なのか悪なのか、またその善や悪は、どの程度のものなのかを、仏教のような経典型の宗教ならば理解でき、結果的に身につけることができるのです。

これが、宗教教育の意義です。
一定の価値を押し付けるのが宗教教育ではなく、それを元に価値の体系を理解し、体得できることが宗教教育の意義なのです。

これを今の世界では、日常的に行っているのですね。
それらを主に、聖書を中心に行っているのが世界です。


ですから海外の方は、論理的思考(ロジカルシンキング)が得意であり、論戦(ディベート)が強いのです。

そこから近代哲学も生まれ、科学も生まれているのです。




かつて聖徳太子は、仏教を日本の国教としました。
日本神道は、かんながらのみちであり、神の心や願いを忖度することであり、それ自体は普遍的なものなのですが、それを執り行うのに大事なものが、神道には欠けているのです。

それが、「教え」です。
つまり、神様のお心や人々に対する願いを現す、文章が存在しないのが神道なのですね。

ですが、平安時代の最澄以降、宗教教育を千年以上やっていない日本においては、論理的思考の大切さ・・・という概念そのものがないわけです。


信仰心はまだしも、論理的思考の土壌なき日本に、大川隆法総裁は論理の光を投げかけている。

その象徴が、今年発刊された、「智慧の法」という経典なのだと思います。



今年は戦後70周年。

おそらく中国や韓国などが、戦後の歴史価値でもって、日本を揺さぶってくるでしょう。

この年に、日本が屈辱的歴史観を受けれるか否かが、未来の子孫たちに与える影響は、とてつもなく大きいのです。


その試練の年に、現代を生きる日本人が、論理の光(智慧)を手にすることができるのか。


「幸福の科学の使命は、限りなく大きい。」

ご法話拝聴の機会を賜り、そう改めて実感した一日でございました。


それでは、またのお越しをー。(^O^)/





 (よろしければ、ポチっとクリック、お願いします。)