全国のアミ~ゴ の皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/
前作記事で、1月11日に行われた、「智慧の法講義」レポートをお届けいたしましたが、約1時間のご講義と、質疑応答の内容が、ものの5分で読み飛ばせるブログ記事でお伝えできるものではございませんので(笑)、なにとぞ、もよりの支部や精舎での、録画での拝聴をお勧めいたします。
大川隆法幸福の科学グループ総裁
いくら後に大樹となる木であっても、種の内は、草花と見分けのつかない場合がほとんどです。
この「智慧の法講義」は、後々の日本や世界、そして人類の方向性をも変えてしまうほどの大法だと思います。
大川隆法総裁は、そういった大きな教えであっても、いつもごく普通のフレーズと、ごく普通の話し方でなさるのです。
何が日本や世界、そして人類の行く末までを変えてしまうか。
それは大川隆法総裁が、何気なく紹介した、この「智慧の法」という書籍そのものにあるのです。
智慧の法(幸福の科学出版)
大川隆法総裁は、「智慧の法」を紹介するときに、
この書籍は、どう読んでも、「考える人を創る」というエッセンスがある。
如是我聞(にょぜがもん 私はこう聞いた)ですから、確定的にこう言った・・・とは言い切れないのですが、アモ~レはそう理解しました。(太文字が、大川隆法総裁のお言葉)
考える人を創る宗教・・・
これは、現代の宗教界、いや、現代人が思い描く、宗教へのイメージそのものへの挑戦の言葉であるし、そのエッセンスが、智慧の法という一冊の書籍に込められているのです。
宗教を学べば、視野が狭くなるというのはおかしい。
真実を学べば学ぶほど、寛容になり、様々な意見の違いを、理解できるようになるのが本当だ。
(如是我聞)
これはイスラム=平和という理念を掲げながら、その方法論を構築できないでいる、現代イスラム社会への今後の指針であるし、そのイスラム社会を、それ以外の社会が理解する必要性と、その方法論を示唆したものだと思うのです。
そして日本的な宗教観、「宗教を学べば、視野が狭くなり、社会から遊離する。」といった風潮への、アンチテーゼであると思うのですね。
宗教は、一般社会で落ちこぼれたものがするものである・・・
こういった、表には出ないが、現代日本人の多くの人々の深層心理に、今年の大川隆法総裁が、挑戦状を突きつけた一言だと思うのです。
つまり、宗教を裏扱いキワモノ扱いしている、現代日本の社会に、
「だったら、智慧の法を喝破してみろよ。」と言ったようなものです。
その、考える人を創る・・・という概念は、宗教を語るときに良く言われる、洗脳とはかけ離れた概念である・・・
いや、洗脳の反対にある概念だということです。
洗脳とは、考えさせなくすることだからです。
さあ、日本のどこに、大川隆法という御仁を、論破できる人がいるというのでしょうか?
現実問題として、さあどうでしょうか?
いないと思うのですね。
やはり、どう考えてもいない。
世の中には、アンチの方もいらしゃいますが、そのアンチの方も、正心館などでの法話の質疑応答の際に、直接質問してみれば良いと思います。
もし質問者になれれば大川総裁は、質問者のご質問に、真摯に耳を傾けるはずです。
この御仁は、そういうお方です。
アモ~レが証人です。
アモ~レはこの御仁の、恐ろしいまでの真摯な姿勢を見たのです。
それは、衝撃的でした。
http://ameblo.jp/oramorre/entry-11948830284.html
(アモ~レは見た。大川隆法総裁の、超ド寛容な心)
日本社会が、もし智慧の法を論破できなければ、宗教=カルトというレッテルは、剥がしていただかないといけないし、それに基づく看板は、当然下ろしていただかなければなりません。
智慧の法は、考える人を創る教え。
これはとりもなおさず、
幸福の科学は、考える人を創る宗教である。
自分で自由に考えることと、神仏への信仰心とは両立する。
本来、宗教とは、そういう道を説いたものだ。
その、智慧と信仰心との両立こそ、現代社会が抱える諸問題を解決する術だ。
という、現代社会への、処方箋そのものであるのです。
冒頭大川隆法総裁は、年初の初詣で、寒空で行列までして参拝する現代日本人を見て、こうご紹介になりました。
東京にある伊勢神宮の分社であっても、寒空にこれだけの人々が参拝しています。
日本人は、誠に複雑な民族ですね。
私は日本人に、まだ宗教心があるということを信じたい。
智慧の法は、考える人を創る教え。
これはまた、我々一人ひとりが、人生の目的と使命に照らして、自分には何ができるか・・・ということを、自らに問うということでもあると思います。
これは仏教的には、悟り・・・と同義語であると、アモ~レは思うのです。
それでは、またのお越しをー。(^O^)/