全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/


縄文時代から書き始めたカテゴリー、「日本人のルーツを探る」ですけれども、とてもご好評いただいております。

今や、珍説のるつぼと化したアモ~レブログです。(爆笑)


今日の演題だって、普通は・・・、あはは、大和朝廷が天照大神を奉じていたから、伊勢神宮を奉った・・・ですよねぇ。(爆笑)


しかししかし、超変わり者であるアモ~レには、そうは見えないのです。(^^;

伊勢神宮が先にできたから、九州ヤマトの人々は、奈良に入れたと考えています。

裏を返せば、伊勢神宮なくば、奈良には入れなかったはずだ・・・ということです。


なぜならば、奈良盆地は、鉄壁の要塞の地形だからです。

盆地にお住まいの方の、全面的な協力なしでは、侵入することはできません。


しかし奈良盆地に軍事侵攻したと言われる神武天皇(神日本磐余彦尊 かむやまといわれひこのみこと)は、海路瀬戸内海から近畿に入り、奈良攻略に一度は失敗しています。


これらが事実とは限らないところもあり、一種の象徴かも知れません。

一度は失敗した・・・というのは、これは奈良の守りの堅さを象徴していることは間違いありません。

当時の日本で唯一の、超軍事大国ヤマトの国が、海路で進軍し、奈良攻略に失敗するということは、朝鮮からの軍事侵攻を考慮しての、シミュレーションをしていたのかも知れませんね。


で・・・二回目は成功するんですね。


神武天皇はどうしたか。

奈良の西、大阪方面からの進軍で失敗したので、東側から攻略して成功するんですね。

これは、「日の光を背にして戦う兵法。」とも言えます。

それは宗教的には、天照信仰の基ともなったとも言われます。

天照大神は、太陽神ですからね。


しかし僕のように、ちゃらんぽらんな信仰心の人間が普通に考えてみた場合(笑)、

「太陽は一定のところにとどまってくれないので、東から攻めたところで、時間帯によっては、背にできなくなるんじゃないかなぁ。」と考えてしまうんですね。(^^;


結局神武天皇は、紀伊半島の南に上陸し、熊野道を通って、奈良にいたり、東側から攻めた・・・というのが、日本書紀に記されています。


この意味は何か?

東側から攻めた・・・というのは、紀伊半島の東側を、見方に付けた・・・ということなのではないでしょうか?


西から攻めただけでは、奈良は防御が硬いので攻めきれないのです。

山によって、大軍が無力化されるからです。

しかし、孤立化させればどうなるか・・・ですよ。


神武天皇が近畿の西側から攻めたときには、まだ近畿の東側の弥生化が済んでいなかったとしたら。

東側、つまり今の三重県から、三道を抜けて、援軍や物資が補給されていれば、盆地の奈良は簡単に守れてしまいます。


しかし、東側からの援軍がこなければ・・・いつかは、降参するしかなくなりますね。


奈良を攻略するには、奈良盆地を封鎖するしか方法論はありません。

東側から攻めたら、攻略できた・・・という神話は、三重県側を見方に付けることに成功した・・・ということだと思います。


そこで力を発揮したのが、伊勢神宮なのではないでしょうか?


神武天皇が出向した宮崎県から太平洋に出れば、黒潮に乗って、紀伊半島南岸にはほぼ直行できます。


奈良の東側(三重県)を、米と酒外交でヤマトの見方に付けるための拠点こそ、伊勢神宮ではなかったでしょうか?


伊勢志摩の海岸は、入り組んだリアス式海岸であり、隠れ家を作るには持って来いの地形です。

そこを拠点に、三重県側を、ほかの西日本地域のように、脱縄文=米作地域として、ヤマトは味方に付けることに成功したのではないでしょうか?


だからこそ、伊勢神宮が歴代大和朝廷から、特別な神社としての地位にあった・・・


そう偏屈歴史ヲタクのアモ~レは、考えてしまうのであります。(爆笑)


それでは、またのお越しをー。(^O^)/



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