全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/
本日お届けする記事は、風情ある古都奈良のイメージを、根本から変えてしまうかも知れません。
そして読者の皆様の、日本神話への見方も・・・。
さあ皆様、九州で発足したヤマトの国は、なぜ奈良を目指したのでしょうか?
これがわかれば、神代の日本のミステリーの大部分は解けるのです。
最初に答えを申し上げます。
奈良という近畿地方の盆地は、アジア大陸から船で攻められたときの、鉄壁の防御の地だからです。
当時の奈良は、絶対に攻めきれない土地なのです。
仮想敵国を朝鮮半島国家群とした場合、朝鮮から日本の間には、対馬海峡や日本海があります。
ですから当然、彼らは船に乗って来ざるを得ません。
まずは、北九州の国々や出雲(島根県)の国々が、朝鮮半島国家群と対峙することになります。
そこを通り抜けると、関門海峡を通って、瀬戸内海に出ます。
瀬戸内海というのは、海の難所なんですね。
穏やかな内海のイメージとは裏腹に、地元民しか通れない危険な海域なんです。
潮の満ち引きによる、複雑な海流の流れがあるからです。
通常の海流ですと、一方方向に、単純に流れているだけです。
しかし、潮の満ち引きによる海流の流れは、速く複雑で、日によって時間も規模も変わります。
大潮小潮がありますから、通るたびに潮の流れが違っているのが瀬戸内海なのです。
ですから、よそ者にとっては、瀬戸内海は巨大な防御の海になります。
この瀬戸内の現代の岡山県には、吉備(きび)という国(くに)もあったようです。
危険な海である瀬戸内海、そして吉備の国と、地元の手馴れた水軍で、瀬戸内海に入ってくる敵の船は大ダメージを受けます。
縄文系の日本は、海洋文明です。
朝鮮系の軍船の東進を、阻止することは十分できます。
そして運良く近畿まで来れたとして、奈良に上がるには・・・。
そうなんです。
船を降りて、攻め上らないといけないんですね。
奈良には、大きな川がないからです。
徒歩で奈良まで攻め上らなければなりません。
船で来る軍隊だと、人数は少数です。
少数で奈良まで攻め上ったとして、今度は、奈良の盆地が、天然の城壁として立ちはだかります。
盆地というのは、絶対的に、地元民が有利な地形なんですね。
なぜならば、山の間を入って来る必要がありますから、大軍が入れません。
また、無数の抜け道などがあり、ゲリラ的に待ち構えて、討ち取ることができます。
よそ者には、地元民しか知らない道や、詳しい山の地形や、隠れる場所などはわかりません。
つまり、これほど防御に適した地形はないんですね。
盆地だと、通常は、攻めることができないんです。
僕から見た奈良の都は、鉄壁の要塞都市です。
大和朝廷は、長きに渡って奈良盆地を中心に都を構えます。
それらはすべて計画都市ですが、計画都市の目的は防御です。
どこからの防御か。
それは、当時の軍事大国である、朝鮮半島国家群です。
奈良は、朝鮮からの攻撃が、絶対にできない位置にあり、また完璧に守りきれる地形だからです。
つまり、神武東征と呼ばれる、九州ヤマトの国の東方進出伝説は、
弥生化が遅れていた、東国への陣略目的ではないと思います。
そうではなくて、
当時の朝鮮半島国家群からの、防御を目的とした大規模な遷都・・・が、その本質であると考えます。
でなければ、交通の便が悪くて、
また支配の及ぶ地域の、最も奥の盆地を、最終目的地としては選択はできないです。
東征という、軍事色の強い言い方とは裏腹の大規模遷都。
これが、奈良の地理的な条件を加えた、私なりの歴史考察です。
天皇という、天照大神の血筋を、安全な地に移すことが、神武東征の本質だったと思うのです。
これを実現するための、さまざまな工夫が必要となります。
果敢に、派手な方法で奈良まで攻め上れば、
朝鮮国家群が、九州や日本海側に、攻め入る隙を与えてしまうからです。
つまり、幕末の江戸城無欠開城の、古代版があったはずなのですね。
それが日本の神話として、古事記や日本書紀に書かれていることだと思います。
それでは、またのお越しをー。(^O^)/
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