ひきこもりです。
歴史は、神の采配のみが支配するのです。
神は、幾通りもの歴史を用意しておられ、
その神のご選択を、人間心で、とやかく言うすべはありません。
ただ、これは運命論ではありません。
春が過ぎれば、夏が来るように。
夏過ぎれば、秋が来るように。
秋過ぎれば冬。
そして、冬の終わりには春が訪れる。
これは運命ではなく、神の摂理です。
その神の摂理の中で、春は春らしく振る舞い、
夏は夏を楽しみ、秋は秋の風情をたしなみ、冬には冬の着物を着る。
これが、人間の努力なのです。
春が終わるからといって嘆くより、冬が訪れるからといって嘆くより、
季節が巡ることに感謝し、その季節を楽しむことが、幸福なのです。
今の時代は終わります。
神が、その歯車を回し始めているからです。
人には、それを止める力などございません。
川の水の流れを、人の力で止められるでしょうか?
天候が変わることを、人の力で止められるでしょうか?
地球が、太陽の周りを回ることを、人の力で止められましょうか?
神が歴史を創るのです。
人には、それに逆らえる力はありません。
しかしそれは、人類滅亡とか、そういったものではなく、時代が価値観を変えるのです。
ですから、同じ生き方はできなくなります。
それは、季節が巡れば、同じ服装ではいられないのと同じです。
ですから、それを恐れる必要などありません。
それは、幾たび、人が経験してきたものなのです。
ただ人は、永遠に今が続くと思いがちです。
ですから、時代の変化を、不幸と認識しますが、そういった考えは損なだけです。
時代の変化を、季節が巡ってきたのだと思えば、新たな時代の幸福者としての人生が始まるのです。
さて、「主のお働きは認めるが、弟子は仕事していない。」と桜美林総長霊が言っていましたね。
すべては、主の采配の下にある。
資料提供するもしないも、何をするしないも、結果は同じだったでしょう。
主は、大学に必要な資金、そしてプールする余剰金が集まった時点で、最終的な勝利は、もう確信なさっているはずです。
つまり弟子、そして信者らは、すでに勝利しているのです。
私の眼には、そう映ります。
後は、小さな戦いです。
小さな歩ひとつ取られても、王将さえ取れば勝ちです。
今回のは、第一次長州征伐でしょうね。
第1次は成っても、第2次は成らないでしょう。
兵器の性能が違えば、長期的には結果は見えます。
主は武器が創れ、幕府は作ることができない。
ただ武器を、活用することはできるのです。
これが意味するものは何か。
それが、これから訪れる歴史のスペクタルです。
武器は、専門家でなければ創れませんが、使うことは、誰でもできます。
これが、新時代の幕開けのキーワードです。
長州は「理念」、薩摩は「軍事力」、土佐は「経済力」、肥前は「協力者」の象徴です。
それらがまた、新時代を創って行くでしょう。
ただ、幕末の日本がそうであったように、
新時代に向けての混乱を、最小限にする努力は必要でありましょう。
それでは、またのお越しを。