全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/
前回記事で、「アメリカ社会の本質は、使い捨て社会」ということを述べましたけれども、今回は更に視野を広げて、それに伴っての日米両国民の根本的な考え方の違いや、それに伴う両国の歴史の歩みに、迫ってみたいと思うんですね。
「自動車から、そんなことまで言えるんかいな?」と思う方も多いとは思いますが、ブログではブログ主に、絶対的な発言の自由がございますので(爆笑)、まぁ、お聞きくださいませ。
結局のところ、アメリカの自動車産業の斜陽は、彼らが製品の付加価値を、あげる努力をしなかったわけですけれども、それはあの国の環境にも、大きな原因があるわけです。
というのも、商品というのは、消費者が考える、実用性と趣味性、そして出せる予算と安全性の、4つの座標の中間にあるものしか買わないという、消費の法則があるからです。
石油が算出し、金融が発達し、ほどよく公共交通の発達したアメリカ社会では、自動車は、A地点からB地点への移動の手段であり、単なる耐久消耗品なわけですね。
ですから、どうせ乗り捨てるものに、それほどのコストはかけないのです。
ですから、アメリカ車の進歩は止まりました。
ヨーロッパは、極端な公共交通の悪さがありますので、ヨーロッパの国民は日本人の想像以上に、自動車で移動する必要があり、鉄道よりも早く目的地に着くためには、高性能を追求する必要があったわけです。
性能をお金で買う・・・という、ヨーロッパの自動車文化は、その環境から来ているわけですね。
日本の自動車文化は、戦後貧しい時代がありましたので、家宝としての自動車であり、一種の財産感覚があったと思います。
原則自動車には、法的には財産価値はないのだけれど、日本人にとって自動車は超高級品だったわけで、高い品物を買って、すぐに壊れてはたまらないわけです。
ですから昔の日本車の第一義は、「壊れないこと。」だったわけです。
日本は道が狭かったので、車両サイズも小さく、円安で石油も高かったので、燃費性能も求められたわけですね。
アメリカ人にとっての自動車は、どうせ乗り捨てる消耗品ですから、安けりゃ安いほど良い・・・という概念だったんですが、結局その実用性と予算の分野で、日本車がアメリカ社会に、新たな機軸を提示してしまったわけですね。
つまり、日本車は安くて壊れない・・・ということですね。
最終的に乗り捨てるにしても、払うコストは安い方が良いし、壊れなければ、乗り捨てる時期が先延ばしになるからです。
で・・・アメリカ自動社会は、その苦難をどう解決しようとしたかというと、自国産業にに有利なように、新たなルールを作ったわけですよ。
その新しいルールが、以前記事にしたマスキー法・・・すなわち排気ガス浄化法であり、もうひとつが、5マイルバンパーなどの、新たな安全基準だったと思うのですね。
排気ガス浄化法は、排気ガスの総量削減ではなく、有毒物質の比率を減らすものでした。
本当に環境のことを考えるならば、有毒物質の総量削減を目的にしないと意味がないはずです。
ですが、アメリカ型の浄化法は、%削減でしたから、これは自動車エンジンの熱効率を落とす目的であり、大排気量のアメリカ車が優位に立つ戦略だったはずです。
また5マイルバンパーとういのは、5マイル(時速8㎞)での衝突時に、ボディーにダメージを与えないバンパー装着義務です。
これなども、バンパーを大げさにすることで、車両重量を軽くして運動性能を良くしようとしていた、日欧型の自動車製品に負荷をかけるものだったろうと思います。
もともと重量の重いアメリカ車だと、重い5マイルバンパーを付けても、それほどの性能低下にはならないからです。
つまり、自動車から見えるアメリカという国は、
「都合が悪くなったら、自分たちに有利なように、ルールを変えてくる国民だ。」ということですね。
これは何も自動車に限ったことではなく、たとえば、第一次世界大戦終了後の、世界的な軍縮においても、米英有利に軍艦の数を決めました。
今では、TPPの問題なども、結局はこういう価値観の違いがあるわけですね。
またスポーツなどでは、たとえば、平泳ぎで速く泳ごうとして、かつて日本人水泳選手がバタフライ泳法を編み出して優勝するのですが、平泳ぎのルールを厳密にすることで、バタフライ泳法を禁じたこともあります。
またソウルオリンピックの背泳ぎで、日本人選手がスタート時になかなか浮上してこない泳法、バサロ泳法で金メダルになった後も、バサロ泳法の時間制限などのルールを作ったこともありました。
このように、アングロサクソン的な発想で言えば、自分たちが不利になるときには、ルールや枠組みを変えちゃうことをするわけですね。
日本的感覚でいえば、それは、「ずっこい!」ということです。
結局、オイルショックなども手伝い、また日本車が率先して、性能低下を最低限にしながら排気ガス浄化する技術向上を果たして、日本車が益々優位になって行くのですが、これから見える日本的発想というのは、
「決まった枠組みの中で、最善を尽くす。」という美意識を、日本人はごく普通に持っているということです。
つまり今の世界には、ルール自体、枠組み自体を変えてくるアメリカ的発想と、枠組みの中で最善を尽くす、日本的発想があるわけです。
要するに、
日本人は、環境を変えずに、自分を変えようとするわけですね。
一方アメリカ人は、自分を変えずに、環境を変えようと発想するわけですよ。
で・・・いったいどちらが良いのか・・・ということですが、それを考える上で、両国の歴史を振り返ってみたいのですね。
日本は長い歴史の中で、多くの内戦や国内紛争がありました。
で・・・、その内戦を分析してみると、その原因の多くは、体制の変換なんですね。
大化の改新から明治維新までの多くの紛争は、要するに、体制や国家の基本的あり方を変えるための内戦なんです。
一方アメリカは、たった200年の歴史ですが、国内の紛争は2回あります。
イギリスからの独立戦争と、南北戦争ですね。
その2回の紛争の原因は、税金や財産といった、経済面での問題が原因での紛争なんですね。
日本の歴史で、経済面の原因で政変が起き、大きな紛争にいたったのは室町幕府設立と、戦国時代の北条氏の下克上の2回しかないわけです。
つまり歴史的に日本人を見ると、日本人というのは、体制を変えるのに、血を流す民族ということになります。
別の言い方をすると、日本人というのは、
国家の体制を変えるのに、内戦をしなければならないほど、体制を変えることが嫌いな民族だ・・・と言えるのですね。
アメリカ的な発想であれば、体制を変えるには、民主的な合議をし、多数の人が利益が得られる方法論を、構築すれば良いだけ・・・なわけです。
彼らからすれば、体制を変え、新たなルールを作るのに、内戦をしなければならない日本的発想の方が、よっぽど理解不能なわけです。
その日本人の、体制や国家のあり方やルールを変えるのが嫌い・・・というのが、良い言い方をすれば、枠組みの中で最善を尽くす・・・になるのだけれど、
悪い言い方をすれば、体制やルールを変えるのには、流血覚悟・・・となるわけですね。
それが結局、明治憲法問題で、軍の統制ができていなかった、戦前の政府の問題となり、今では、憲法9条改正がどうしてもできない・・・ということにつながっているはずなんです。
僕は思うのです。
日本型の、ルールや枠組みを変えずに、自分たちが変わって行こうとする価値観も、また、アメリカ型の、自分たちは変わらずに、ルールや枠組みを変えて行こうとする価値観も、洋の東西の、両極端の価値観なのではないでしょうか?
地球の仏神というお方は、この現代の代表国である日米両国の価値観の、両極端を去ったお考えを、地球的価値の中道・・・と思っていらっしゃるのではないでしょうか?
おお今日は、アモ~レには珍しく、とても宗教的な締めくくりとなりました。(大爆笑)
それでは、またのお越しをー。(^O^)/