全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/


何事も、正しい見解が大事です。

僕の属する医療の世界でも、何が大事かというと、正しい診断です。

正しい診断があればこそ、正しい治療が開始できるからです。


正しい見解は、原因と結果を明らかにし、ものごとを、次のステージに向かわせます。

それは取りも直さず、成功のステップであり、繁栄への第一歩なのです。


そういう意味合いを込めて、宗教ネタではありませんし、ひょっとしたらカテゴリー違いかも知れませんが(爆笑)、僕の好きな自動車社会の、歴史と現状と、今後の展望について、僕なりの見解をお届けしております。


さて、前回までお届けしていたスバルシリーズに続くのは、三菱自動車です。

最近の三菱には、どうも元気がありません。

取り扱っている車種も、すっかり少なくなってしまいました。


三菱は今、スポーティーモデルを製造していません。

かつては、ランサーエボリューションという、公道を走れるラリーカーを長年作っていましたが、今残っている在庫で販売も終わる予定です。

http://www.carsensor.net/CSphoto/cat/MI/S022/MI_S022_F004_M002_1_L.jpg

(ランサーエボリューションⅩ)


スポーツモデルというのは、それほどの販売実績が残せるわけではありません。

特に、スポーツカー氷河期と呼ばれる昨今では、市販化に向けた投資を回収できるほどは売れないでしょう。

しかしスポーツモデルというのは、自動車雑誌などで取り上げられることは多く、存在するだけで企業広告としての機能を果たします。

僕は三菱は、ランサーエボリューションなどのスポーツモデルを企画し、また製造販売するべきだと思います。


さて、三菱自動車の歴史は古く、戦後直後には、アメリカのクライスラー社からのライセンスを受け、ジープを作っていました。

http://cdn.mkimg.carview.co.jp/minkara/usercar/000/001/269/099/1269099/p1.jpg?ct=53af1f85acdc


その前の戦前は・・・

以前の記事でも書きかしたけれども、日本海軍零式戦闘機、ゼロ戦を設計開発したのが三菱です。

http://ameblo.jp/oramorre/entry-11925546435.html


そこで僕は、面白い発見をしたのです。

それは、


「ゼロ戦にまつわる因縁が、その後の三菱自動車の商品開発の動機であり、その後の三菱自動車の、歴史を培ってきたのではないか?」

というものす。


そうした戦前から続く、三菱とスバル(中島飛行機)との因縁と微妙な関係から、この自動車界、そして自動車から見える社会を、チラっと、覗いてみたら面白いのではないかと思います。


さて、そのゼロ戦ですけれども、確かに設計と開発は三菱が行いました。

しかしその生産の6割は、現在のスバル(中島飛行機)が行ったのですね。

しかも、ゼロ戦に搭載されたエンジンも、中島製だったんです。


日本を代表する戦闘機は、三菱のゼロ戦と、中島飛行機の隼(はやぶさ)です。

ゼロ戦は海軍の主力戦闘機。

隼は、陸軍の主力戦闘機です。


おそらく戦時協力の下、ゼロ戦の生産を、ライバル社中島飛行機も受け持ったのでしょうけれども、戦闘機以外の戦艦なども手がけていた三菱には、大量のゼロ戦を製造するだけの、設備等での余力がなかっかのかも知れません。


しかしこの名機ゼロ戦が、エンジンが中島製で、生産された機体の6割が中島製だったことが、戦後の三菱に、スバルに対抗するライバル心を燃やさせたのではないか?と僕は考えたのですね。


なぜならば、三菱の自動車つくりは、すべてスバルのアンチテーゼだからです。(爆笑)

歴代三菱車には、スバルの逆のイデオロギーが見え隠れしているんですね。


つまり、「中島飛行機、何するものぞ!」という、技術者の意地を、僕は歴代三菱車からは感じるんです。


1990年代から最近の2000年代まで、WRCの国際ラリーの場において、三菱のランサーエボリューション(通称ランエボ)VSスバルのインプレッサ(通称インプ)がしのぎを削り、激しいバトルを展開しておりました。

http://cdn.mkimg.carview.co.jp/carlife/images/UserCarPhoto/89851/p4.jpg?ct=4ec1cce563d7

(左赤い車が三菱ランサーエボリューション 右青い車が、スバルインプレッサ 共にラリー仕様)


レースと違い、ラリーは公道を走りますし、改造もレースとは違って限定されます。

ですからラリーの実績は、実用性能に極めて近いものなんですね。

ですから、公道で一番早い自動車は何かを知るには、ラリーの実績がものを言うわけです。


当時、「世界で一番早い自動車は日本車」というのが、世界の常識だったんですけれども、それは国際ラリーの場において、この三菱ランエボか、スバルインプの、両車どちらかしか、優勝できなかったからなんです。


ランエボVSインプ対決は、現代版、三菱ゼロ戦VS中島隼対決だった・・・ということが言えるかも知れませんね。


三菱の車つくりは、耐久性と実用性を重んずる車つくりです。

極めて現実的な、開発の判断をするのが三菱なのですね。


製品の部品構造なども、その時代における、実績のあるものを使う傾向があります。

ですから三菱車は、カタログなんかを眺めていても、それほど面白みがなく、地味に見えるところなんです。


そこも、「やれ国民車だ。」「やれ、水平対抗FFだ。」といった、理想主義的な理系の判断の多いスバルとの、根本の考え方が違うと言えますね。


1958年にスバルは、スバル360を出して、本格的に乗用車に参入します。

スバル360は、一般消費者対象の国民車として開発されたものです。

http://www.ookami-museum.com/car/car025/car025.jpg


それを受けて・・・かとうだはわかりませんが(笑)、1961年に、三菱も三菱360を販売します。


スバル360がリアエンジンリアドライブ(RR)の、当時の理想主義的な乗用車だったのに対し、三菱は当時主流の、フロントエンジンフロントドライブ(FR)の貨物車でした。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/55/Mitsubishi-360.jpg


ここにも現実主義、実用主義の三菱の選択があると思います。

FRは、実績のある駆動方式ですし、一般消費者を対象とした乗用車人口は、まだそれほどおらず、「業務用車両が、現実的な判断だ。」というのが、三菱の見解だっただろうと思います。


ただ、スバル360の成功を受けて、三菱も1962年に乗用軽自動車、三菱ミニカを販売します。

初代は業務用車両三菱360の焼き直しですが、1969年に登場した2代目以降は、デザインも洗練され、軽自動車の中核をなす存在でした。

しかし、駆動方式は、実績のあるFRでした。

http://www.carsensor.net/CSphoto/bkkn/908/610/U00008908610/U00008908610_001L.JPG

(初代ミニカ)

http://livedoor.blogimg.jp/koyapop2/imgs/b/3/b3c5e27a.jpg

(2代目ミニカ)


1969年に、コルトギャランが発売されますが、これなども、1966年に発売された、スバル1000と対比すれば面白いです。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1c/Mitsubishi-ColtGalantAIIGS.JPG

(コルトギャラン)


コルトギャランは、直列4気筒OHC、FR駆動で、リーフスプリング(板バネ)による後輪固定式サスペンションと、機能はどれを取っても、当時の主流中の主流の形態でした。

しかし走ってみると、当時最も速かったのは、ギャランだった・・・というのが、事実なんですね。


理想主義的なスバルに対し、「じゃぁ、実際に走って見れば、どっちが優秀なんだい?」というのが、常に三菱自動車の製品スタイルだったのです。


料理人でたとえるならば、

とにかく、素材にこだわる料理人がスバル。

とにかく、仕上げにこだわる料理人が三菱。


こう言えるのではないかと、管理人は思うのです。


ということで、時間となりましたので(笑)、本日はここまで出ございますが、次回も、この理想主義的理系の侍集団スバルVS現実主義的無骨漢三菱の観点から、この分野における正しい見解に迫りたいと思っています。


そういう視点で見ると、この三菱自動車が、現実主義的技術者集団であるがゆえにの、世界に与えてきた影響と、無骨漢三菱の超~意外な一面、そして今後に訪れるであろう、近未来社会の自動車産業の方向性までもが見えてくるのであります。


それでは、またのお越しをー。(^O^)/