全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/


前回記事から、「おい、おまえのところ、幸福の科学だろう?」「アモ~レは、創価学会に宗旨替えしたんか?」と、なんだか読者の皆様に、疑われるような演題を付けてしまっています。(爆笑)


釈迦教団のミステリーを追及している内に、法華経に関する私見を、前回記事から述べているんですけれども、法華経というのは、経典としての内容はともかく、釈迦教団にとっては革命的な出来事だったし、宗教としても、また、人類の歴史としても、革命的な効果を、その後の歴史に影響をもたらすのです。


とまぁ、創価学会の方が、このブログ記事をお読みになったら、とても喜んでおしまいになるでしょうし(笑)、創価学会信者さんの、ブログ記事のネタになっちゃうかも知れませんけれども(笑)、まぁええんですわぁ。(爆笑)


幸福の科学信者ブログで、法華経を称える記事が出る・・・。

しかも、「いいね!」がカウントされる・・・。

それは取りも直さず、幸福の科学がカルトでない、明らかな証拠ですからね。(笑)


ねぇそう思いませんか?

もし幸福の科学がカルト教団ならば、創価学会さんをはじめ、数ある法華経を称える他教団への、応援になるような演題記事は書かないだろうし、ましてやその記事に、「いいね!」が付いたりはしませんよね。(笑)


つまり幸福の科学には、そういう記事に、「いいね!」が付けられる、基礎的な文化があるんです。

まぁ、幸福の科学は、一信者が法華経を称えても、理論破綻しない・・・ということです。


ということで法華経は、それ以前の釈迦教団にない宗教性がありました。

ひとつは前回記事で述べたとおり、久遠実生の仏陀・・・という思想です。

これは、わかりやすく言うと、永遠の仏陀・・・という考え方です。


釈尊という、傑出した人物は、人間的に修行して悟ったのではなく、元々悟っていた存在として、天上界にずっと存在していて、今後も存在する・・・。

要するに、「そうしないと、人間は修行しなくなるので、方便として、修行していたのだよ。」ということですね。

これで仏教に、宗教としての普遍性が加わりました。

永遠の昔から仏陀は地上を見続け、今後も見続ける・・・ということですから、釈尊は聖書の創造主と同じ立場に立つわけです。


それがそれまでは、仏法の学習団体兼、瞑想教室的な釈迦教団が、宗教教団へと変貌した所以です。


それだけならば、仏陀と人間の格差だけが引き立ちますけれども、法華経のもうひとつの側面として、


人間は、仏の子


ということを、法華経は強く強く強調したのが、これまでと違うところなのです。


それまでは、三宝帰依・・・つまり、下生した仏陀(仏)、仏陀の教え(法)、仏陀の作った教団(僧)に帰依するのが釈迦教団の信仰形態でした。

この三宝帰依体制は、その後も続くのですが、意味合いが違ってきたのです。


それまでの釈迦教団の在家信者は、出家者に施しをするのが修行でした。

出家者は、釈迦教団の教えを学ぶ、仏法の専門家的な扱いでした。

言わば、先生役が出家者だったわけですね。


しかし法華経が高らかに謳う、人間仏の子思想で、この概念が変化して来たのです。


つまり、出家者も在家信者も、仏の子であることに違いはないのですから、たた役割が違うだけ・・・。

または、過去世の徳が違うだけ・・・という概念に変化して行くのですね。


仏のもとに、人は平等・・・という概念です。

仏のもとに平等なのだけれども、役割や過去世の徳によって、各自の努力の結果の、公平性も保たれていたのです。

平等と公平という、難しい概念のバランスが、仏教では法華経があることによって、理論的に担保されているのですね。


今もインドに残るヒンドゥー教の、元になっているバラモン教の時代のインド地方は、今と同様・・・いや、今以上に、出生による身分格差社会でした。

バラモン(祭祀階級)、クシャトリア(王族・武士)、シュウドラ(商人)、バイシャ(大衆)などの階級があり、それぞれが差別しあっていました。


釈尊自体、クシャトリア(王族)でした。

「クシャトリアから、仏陀が出るはずがない。」「仏陀は、バラモンから出るはずだ。」とか、釈尊自身も、バラモンから非難されていた時期もありましたが、釈尊は自力でこの非難を覆しています。


それは、法の強さであります。

釈尊の説法には、仏陀の証である、三宝印があったからです。

そして釈迦教団内には、カースト制度はありませんでした。

釈迦教団は、何もかにもが、先鋭的で現代的であったのです。


そして、このカースト制度の中で生きる仏教徒たちは、人間仏の子思想を強く打ち出した法華経で、釈尊への帰依の姿勢を強くしたのですね。

これが、釈尊晩年に説かれた法華経以降、急速に釈迦教団が宗教的遺伝子を強くし、その後の仏教が持つ文化が、我々の知る仏教のイメージとなった経緯ではないかと思います。


法華経は、三宝帰依体制やカースト制度で生きる人々を、精神的に開放したのです。

それは一種の、民主主義革命でもあったと思います。


それは、とても高度な民主主義です。

人間には、一人一票の権利がある・・・みたいな、浅薄な民主主義ではありません。


「人は、一人一人が尊い。」

「なぜならば、一人一人が仏の子だからだ。」


この、現代にも通じる、高度な民主主義の原点が、2500年前の釈尊によって、すでに説かれているのです。


それでは、またのお越しをー。(^O^)/