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仏陀の権限とか権威とかを示すのに、前回記事で書いた、殺人鬼アングリマーラーかくまいエピソードや、今回取り上げる、釈迦国滅亡エピソードほど重要なものはありません。


釈迦国は、当時のインドの大国コーサラ国に滅ぼされます。

コーサラ王プラセーナジットは、熱心な仏教徒であり、釈尊に帰依して、釈尊は大国コーサラ国の国師でした。

国師とは、釈尊は国王を宗教面で指導するだけでなく、国政までアドバイスができたということです。

釈尊は小国とは言え、釈迦国の王子でしたから、実務政務面でも、十分な教養はありましたし、何より仏陀の称号がありました。


仏陀とは、仏陀の法を説く者であり、仏陀の証は、その説法の中に三法印を含む者です。

三法印とは、諸行無常=時間論 諸法無我=空間論 涅槃寂静=修行論 を説く者です。


これは仏陀と称され、神仏の代理人=化身ですから、誰も仏陀の指示には逆らえませんでした。

地上の絶対権力者である王とて、いずれ死ぬ運命にある、一人の人間です。

仏陀の示す価値で、死後の行き先が決まるのですから、王とてその意向を無視できないです。


このままならば、釈尊はコーサラ国の国師ですから、釈尊生誕地である釈迦国を、釈尊が指導するコーサラが、滅ぼす経緯がわかりませんね。


これには、今でもインド地方を停滞させているカースト制度の問題があります。

釈迦国に旅行していた、若き日のプラセナージッド王は、釈迦国の女性を結婚します。

しかし釈迦国が後のコーサラ国王に、結婚相手として紹介したのは、釈迦国の王族の女性ではなく、釈迦国の政治化の召使でした。

これを、「釈迦国の娘」と騙して、コーサラ国王に嫁がせたのです。


そのことを後々に知った、コーサラ国王子ヴィドゥーダバは、怒り狂いました。

怒り狂い、父王を殺めて王位を奪い、釈迦国に復讐しようとします。


その釈迦国への進軍の途中、仏陀は三度に渡り、軍の前に現れ座禅をした・・・と伝えられています。

その度に、ヴィードゥーダバ王は、「ああ、釈尊はやはり母国進軍を、嫌がっているのだな。」と釈尊の意向を汲み取り、その度に軍を引き返します。


父王を殺めてまで、自らの復讐を果たそうとした新王であっても、釈尊の意向は受け入れているのです。

ここに、仏陀・・・という存在の偉大さがあります。


深く釈尊に帰依していた、父王プラセナージッド先王ならば、まぁ彼は信者ですから、「まぁ、致し方ないか。」と、釈迦国の計らいを、心中苦々しく思いながらも、我慢したのも理解できます。


しかし自らの出自の秘密を知り、父王を殺してまで進軍した新王ですから、ヴィドゥーダバ王の信仰心は父王よりは劣るでしょう。

しかしそうであったとしても、仏陀の意向は無視できないのです。


これが、仏陀なのです。

信じているとかどうとかではなく、仏陀・・・という意味には、別の意義があるのです。


そして4度目の進軍のときには、釈尊はコーサラ国軍の前には現れませんでした。

ヴィドゥーダバ王は、「釈尊(仏陀)が現れないということは、進軍しても良い。」と判断したのです。

つまり、仏陀である釈尊は、釈迦国進軍に、「その価値あり。」とお墨付きを与えたということです。


このエピソードは、今では、「仏の顔も三度」ということわざの元となっております。

この釈迦国滅亡エピソードが示していることは何か。


自国民の生殺与奪の権限を王は持ちますが、それは今も昔も実質的には変わりありません。

今では民主主義的になり、やんわりとした表現にはなっておりますが、現実は変わりはないのです。


国民を法律で処刑・・・今で言うならば死刑執行とか、戦争の際に他国の兵士を殺める決断とかが、王などの為政者はしなければならず、生殺与奪の権を王は実質的に持っております。


これは、誰かが持っていないといけないのです。

でなければ、秩序が保てないからです。

自由自由と叫んでも、その自由な社会に秩序なく、無秩序な自由社会であれば、それは地獄社会だからです。

その王の最終権である、生殺与奪の権限すら、仏陀は持ちえているということです。

王は、仏陀に逆らえないからです。


そしてこの、釈迦国滅亡エピソードのもうひとつの側面は、その生殺与奪権限を、実質上、仏陀は持ちますけれども、それを行使するしないは、仏陀の判断だ・・・ということです。


権利がある者は、権利を行使する権限と、それを行使しない権限を持つのです。

土地を持っている人には、そこに家を建てる権限もありますが、放っておく権利だってあるわけですね。


仏陀は殺し合いなど望まないでしょう。

なぜららば、因果の理法=原因結果の法則のもとでは、その行為は、次なる不幸の種にしかならないのを、最もご存知なのは、全ての理法=三法印を知る仏陀だからです。


宗教に疎い日本社会では、仏陀の権威や権限については???なところがあります。

しかし仏陀とは、仏陀の法を説く者であり、仏陀の法とは三法印です。

三法印を説く者が仏陀です。


簡単に言うと、仏陀とは、仏陀という職業なのです。

「神仏の化身として、神仏の価値を降ろし、定着させる職業だ。」ということです。

その方法論の選択権は、仏陀にあり、仏陀は心の中でだけ自由自在なだけでなく、社会全般からも自由でなければならないのです。

なぜならば、仏陀以外に、神仏の価値はわからないからです。


患者に身体のことがわからないから、医師の提示する治療方針に従わざるを得ないように、仏陀でない一般衆生は、仏陀の意向には従わざるを得ないということです。


つまりこの釈迦国滅亡エピソードの本質は、仏陀を信じる信者にだけ、仏陀が尊崇されるのでも、仏陀を信じる信者にだけ、絶対権を持つのではない・・・という事例なのです。


つまりは、それが嫌ならば、仏陀以上に高度で、詳細で、正確な、三法印を説く以外はない・・・ということなんです。

それが仏陀です。


我々凡夫、一般衆生にとっては、ある意味厳しいことありますが、それが現実です。


それでは、またのお越しをー。(^O^)/