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さて、釈尊は、1000人を殺めたと言われる殺人鬼、アングリマーラーを仏陀教団の中にかくまい、国王からの使者を追い返します。

それに、時の国王は従います。


びっくりの歴史的事実です。

今ならば、どうなるでしょうか?

いや、当時でも、1000人を殺めた・・・ということは、その遺族の方はそれ以上いるわけですし、アングリマーラー事件は、国内を揺るがす大事件であったはずですよね。


今で言うならば、オウム事件の首謀者を教団にかくまう、または、アルカイダの幹部を教団内にかくまうようなものです。


それを教団内にかくまうのなら、釈尊は当時の人たちに、相当の恨みを買った可能性がありますよね。


しかしそれでもなお、王は釈尊に従い、住民をはじめ、その後の方々も、釈尊を仏陀として崇め尊敬し続けました。


これが後の世に、「仏法は王法を越える」というエピソードにはつながるのですけれども、ではなぜ仏陀の法を語る釈尊の判断に、王や住民は従ったのでしょうか?


歴史には面白いところがあって、歴史というのは史実なのですね。

つまり、文字になって残ることが歴史なのです。


文字に残らなければ、歴史・・・という分野には入らず、別の分野のカテゴリーになります。


歴史は史実ですので、飛び切りの出来事は歴史という紙面には残っても、その判断の背景にある、当時の常識というのは残らないのですね。

書く必要性があるから、人は書くのであって、書く必要もないくらいの当たり前すぎる話は、人は書かないのです。


ですから歴史には、そのときのその地域での常識・・・は、欠落しているのもなのですね。

それが歴史の見方です。


当時の王や住民が釈尊の判断に従ったのは、釈尊が仏陀であったからなのです。

釈尊が仏陀でなければ、犯人隠匿の罪で、釈尊も逮捕されていたでしょうね。


釈尊が仏陀である・・・というのは、釈尊が語る説法に、仏陀の法の証である三法印が、ふんだんに含まれていたからです。


三法印は、諸行無常(時間論)・諸法無我(空間論)・涅槃寂静(修行論)です。

この三法印が、史実として成立したのは4世紀とも言われ、言葉としてまとまったのは釈尊後代ですけれども、三法印の概念は、すでに釈尊時代にはあったのですね。


たとえば、万有引力を発見したのはニュートンですけれども、ニュートンが万有引力を創ったわけではありませんね。(笑)

ニュートン以前にも万有引力はあり、りんごは世界中で落ち続けていたのです。(爆笑)


また、アインシュタイン以前にも、物質には、重量に光の速度の2乗した分の、エネルギーは内包され続けていたし、4次元以上の存在も、あり続けていたのですね。

コペルニクスやガリレオ・ガリレイ以前も、地球は太陽の周りを、回り続けていたのです。


釈尊以前から仏陀の証=三法印の概念はあり、その概念の元、2500年以上前のインド地方の人々は、釈尊の説法を聞いて「仏陀だ。」と判断したわけです。


そこらへんが、時下のエピソードには出てこないので、後代の人々は???になるのですけれども、それは仏陀=仏陀の法を説く者=三法印を語る者というのが、当たり前すぎて出てはこないからなんです。


ということで、なぜ王をはじめ、国の住民が釈尊の判断に従ったかと申しますと、仏陀が神仏の代理人だったからです。

代理人という言い方は、あまりありがたみのない言葉ですね。(笑)

代理人という言い方ではなければ、神仏の化身として認識されていたからです。


では、なぜ神仏の化身の判断に従わなければならないのか?

それは、王であれ誰であれ、いずれ必ず死んでしまう存在だからです。

自分が死んだ後、それをどう判断なさるかは、神仏の化身である仏陀のご判断であるからなのですね。


それは、時間論・空間論・それを踏まえた修行論を、仏陀は自由自在に説きますけれども、これが意味するものは、仏陀はそれについて、相当知っているということですね。


つまり、「あなたは、天国のここにいくんですよ。」とか、「あなたは地獄で○○年、修行を積む必要がありますね。」などの判断は、仏陀なら、当然できるということなんです。


お医者様は、患者さんの容態を見て、

「う~ん、これは相当病状が進んでいるようだから、もっと検査をする必要があるし、場合によっては、手術しないといけませんから、全治○○ヶ月。」

「○○さん、○○から○○ヶ月入院してもらいますから、今から準備しておいて下さい。」

という判断をしますね。


患者さんは、そのお医者様の判断には・・・、従うしかありませんよね。

なぜならば、体のことや治療方法を、医師はよく知っているからです。


医師は人の体を治療する責務のもと、患者を治療する権限を持ちます。

その治療方法の選択権は医師にあります。


仏陀は、価値を決める責務のもと、何を善とし悪とするか。また、何を美とし醜とするかを決める権限があります。

善悪美醜の価値を、天上の神仏の世界からこの地上に降ろし、定着させる方法論の選択権は、仏陀にあるのです。


ですから王は、特に民主主義的原則の薄い、古代の国家では絶対権力者ですけれども、その絶対権力者である王であっても人間です。

人間である王は、必ずいつかは死んであの世に行きます。

王様の働きが神仏の目にかなうものであったか、それともそうではなかったかの判断をし、最終的に王様の、あの世の行き先決めるのは仏陀です。


ですから、絶対権力者である王とて、仏陀には逆らえなかったのです。

「仏陀が、そうおっしゃるならば仕方ない。」「きっと世尊(仏陀)に、何かお考えがあるのだろう。」と、判断せざるを得なかったのですね。


あらら、話が横道にそれたので、釈迦国滅亡エピソードにまで行きませんでしたね。(笑)

今日はここまで。


それでは、またのお越しをー。(^O^)/