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仏陀とは、仏陀の法(教え)を説く者です。

仏陀の法とは、三法印です。

三法印とは、諸行無常(しょぎょうむじょう)・諸法無我(しょほうむが)・涅槃寂静(ねはんじゃくしょう)です。


仏陀は説法の中に、この三法印を必ず含むのです。

それが仏陀であり、これは仏陀(如来)でしかできないことなのです。


僕は、諸行無常を現代的に時間論と定義付けし、諸法無我を空間論と位置づけしました。

では、涅槃寂静はどう位置づければ良いのでしょうか。


「アモ~レは、涅槃寂静を知っているのか?」と言われれば、答えは???です。(爆笑)

しかしまぁ、読んで見てください。


涅槃寂静とは何か。

まず涅槃(ニルバーナー)とは、心が安らいでいる状態です。


死にいたることを、涅槃に入ると言いますが、これは本来の意味ではありません。

死んだら仏になる・・・という、日本固有の死生観から来るもので、本来の仏教的解釈ではありません。


寂静とは、通常用語では静寂ですが、字のごとく静かで凪いいることです。

心が安らぎ、静かで凪いでいる状態が、涅槃寂静です。


なぜ如来(仏陀)が、涅槃寂静を説くか。

それは、如来(仏陀)の心が、涅槃寂静の状態だからです。


仏陀は、涅槃寂静を知っているから、涅槃寂静を言えるんです。

知らないものを、言うことはできません。

知っているから言えるのです。

涅槃寂静の心とは何かを、仏陀は知っているからこそ、仏陀は涅槃寂静を説けるのです。


そして、涅槃寂静の心の状態とは何か。

涅槃寂静の心に至るためには、どのようにすれば良いか。

また、涅槃寂静の心を保つためには、どのようにすれば良いかを、仏陀は知っているのです。


しかも重要なことは、この仏陀の涅槃寂静の心というのは、「ホッ。ああ良かったね。」とか、「ああ、なんだか癒されるぅ。」って言うような、巷に溢れる心が安らいだ状態ではなく、絶対的な心が安らいだ状態のことです。


なぜならば、その仏の涅槃には、諸行無常=時間論、諸法無我=空間論というバックボーンがあるからです。

つまり、大宇宙の始まりから終わりまで続く安らぎだということです。


たまたま「心が癒されるぅ。」的な、偶然の産物ではなくて、永遠の時間と、無限の空間の中の、今を生きる生命体としての、絶対的な心の安らぎなのです。

これが、仏の実態です。


つまり仏陀とは、永遠の時間と、無限の空間と、それを踏まえた心を知る存在であるということです。

それはつまりは、仏陀とは、大宇宙の神仏の代理人だということです。


そして涅槃寂静は、仏陀の心境でもありますが、当然そこに至る方法論や、維持する方法論を含んでおりますので、それを聞く我々凡夫衆生からすれば、これは目指すべき目標であると同時に、仏陀にいたるための修行論でもあるのです。


つまり、涅槃寂静を現代的に表現するとするならば、修行論であると言えます。


その仏陀の説く修行論は、時間論と空間論を兼ね備え、それを前提とした心の教えであり修行論です。


アモ~レのような、凡夫衆生視点で言うならば、

諸行無常とい時間論があるからこそ、原因結果の法則(因果の理法)のもと、人は神仏に向かって向上して行けます。

諸法無我という空間論があるからこそ、人は自分と神仏との境地の差を認識することができ、人生修行の方向性を見つけ出すことができます。


そして、「その人生修行の鍵は心にある。」「心を、神仏の境地に近づけることが、修行である。」ということが、涅槃寂静という、時間論と空間論を基礎とした修行論によって、誰にでも理解できるようになっているのです。


仏陀とは法であり、仏陀は仏陀の法を説き、仏陀の法とは三法印 

です。


三法印とは、

諸行無常=時間論 諸法無我=空間論 涅槃寂静=修行論 

です。


この三法印を含んだ法を、説法で説く者が仏陀であり、それ以外に、仏陀の証明はないのです。


それでは、またのお越しをー。(^O^)/