全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/
ここ数回、アモ~レには珍しく、宗教関係の記事を書いております。
読者の皆様は、びっくりしているかも知れませんね。(笑)
「どしたん、アモ~レしゃん。」
「夏なのに電気料金が上がったので、冷房代ケチって、熱中症になってるんと違うか?」
そういう声が、全国から聞こえているようでございます。(爆笑)
僕は人類の中で、幸福の科学の大川隆法総裁の次にへそ曲がりですのでね。(笑)
アモ~レが宗教記事を書いたからと言って、実はそれは、幸福の科学の教義と、ドンピシャでリンクするとは限りませんので、一応ご注意を。
一連の記事は、一般論です。
一般的な、「仏陀とは何か。」でございます。
僕は、私見しか書かないのです・・・っていうか、へそ曲がりですので、私見しか書けないんです。(爆笑)
ですから、「仏陀の教えを説く者が仏陀である。」「仏陀を、行動面で規定する定義はない。」というのは、アモ~レ私見でもあり、「初めて聞いた。」という方も、幸福の科学の信者さんにも、きっといらっしゃるかも知れませんけれども、これは実は、全世界共通のユニバーサルな見解でもあるんです。
ということで、仏陀は仏陀の法(教え)を説くのですけれども、その仏陀の教えには、必ず三法印が含まれます。
三法印を含む法を説くものが仏陀である・・・これ以外の定義などないのです。
その三法印の一つ、諸行無常=時間論を前回記事で述べましたけれども、今回は第2の法印、諸法無我です。
諸法無我(しょほうむが)とは何か。
諸々の事柄には、我なるものはない・・・という意味ですけれども、これを文法的に説明するほど、アモ~レは悟ってはおりません。(爆笑)
あははは。
さっぱりわかりません。(さらに爆笑)
アモ~レの頭脳は、モノビット(単細胞)で超大雑把ですので、緻密な教学は、どうぞもよりの支部か、レオさんにでも聞いてください。(爆笑)
ということで、文法的に諸法無我を理解することも、説明することもできないアモ~レですが・・・、だってそうじゃないですか?
諸々の事柄には、我なるものはない・・・って、説明できますぅ?(笑)
我々の体だって、手に入れた財産だって、一所懸命働いて手に入れたマイホームもマイカーも、我なるのものではない・・・って、???ですよね。(爆笑)
自我の強いアモ~レには、諸法無我はさっぱりわからんので、アモ~レは、「どうやったら、我なるものはないと思えるか。」に挑戦してみることにしたんですよ。(笑)
僕は、ずるっこいところがありますからね。(爆笑)
ずるっこくて、信仰者らしくない信仰者であるアモ~レが、本領を発揮するには、柔軟性で勝負するしかないわけです。(さらに爆笑)
そういうことで、アモ~レのモノビットな頭脳で、どうやったら、「諸々の事柄は、我なるものはない。」と思えるか。(笑)
僕は諸法無我を、空間論と捕らえることにしたのです。
つまり、大宇宙の中で、小さな地球という星の中で、その中で小さな世界の中で生きている自分自身というのを見つめてみたときに、「ああ、なんて自分というものは、ちっぽけなものだろう。」って、思えませんかね?
アモ~レは思いました。
大気圏外に浮かぶ八ップル宇宙望遠鏡で、最近では鮮明な画像が撮影できるようになった宇宙空間。
また、この世を離れ、死後に行くと言われている、大霊界。
そういう、大きな大きな、現実に我々が暮らす世界の本質を見たときに、「自分の小ささ。」というものを、人というものは、実感できるのではないでしょうか?
そして銀河や星々をはじめ、すべての生命をはぐくむ宇宙。
そして人や微生物や植物、それらに命を与え続け、養い、育み続けている神仏。
こういう大きな世界観や、大きな愛や慈悲を思うとき、妻子をやっとこさ養っていることで、偉そうにしている自分(アモ~レ)というものは、そういう大宇宙の神仏の境地から見るならば、ほとんど無視してよいほどの、ちっぽけな存在ではないでしょうか?
そのとき僕は思ったのです。
諸法無我とは、空間論 ではないか・・・と。
諸々の事柄は、我なるものはない・・・と、おそらく如来(仏陀)は、悟っていらっしゃるでしょう。
ですから、如来(仏陀)の悟りを得た方なら、この諸法無我をすんなりと、「おお、まさしくそのとおり。」とお思いになることができるだろうと思います。
しかし、アモ~レを始めとする凡夫衆生には、そう喝破するほどの悟りも見識も、おそらくは持てないだろうと思うのです。
しかし、垣間見ることはできる。
それは、広大な宇宙や、広大な霊界や、銀河や星々を含めて、そこに生きるすべての生命を、創り育むご存在の思いや願いを察するときに、垣間見ることはアモ~レのような凡夫でもできるのです。
諸法無我=空間論ととらえるならば、絶対的な神仏の愛や慈悲、そして圧倒的な智慧を知ることで、自分と神仏との、境地の違いを実感することもできます。
つまり、神仏と人間との関係学こそ諸法無我であり、だからこそ仏陀は、諸法無我=空間論を説くのではないでしょうか。
あはは、いけませんね。
自我の塊であるアモ~レは、諸法無我を悟っておりません。
アモ~レの「むが」は、六つの我(六我)の方でございます。(爆笑)
僕は悟っておりませんので、記事がしどろもどろです。(笑)
しかし、諸法無我は空間論だと思います。
そう見ることで、釈尊が尊敬され続けたり、国王をしのぐほどの権威を、釈尊が持ちえたのかも理解できるのです。
それでは次回は、三法印の最後、涅槃寂静(ねはんじゃくしょう)についてです。
諸行無常=時間論 諸法無我=空間論 に引き続き、へそ曲がり星人アモ~レは、涅槃寂静にどういう見解を提示するのでしょうか?(笑)
それでは、またのお越しをー。(^O^)/