全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/
ここのところ拙ブログでは、幸福の科学の歴史を振り返っています。
それは、総裁である大川隆法という御仁の、無私なる人生の歴史でもあります。
前回記事の演題は、大川隆法総裁の遺言でした。
それは、毎月刊行されている、幸福の科学のオープニングメッセージそのものが、大川隆法総裁の、人類への遺言なんですね。
月刊誌のオープニングメッセージは、総裁が危篤の時に、一気に書かれたものだからです。
僕らは毎月、総裁の遺言と接しているんですね。
2004年に、激務が祟って心臓麻痺で倒れた大川総裁は、死というものを意識なさったと思います。
実はそれが、その後に始まる、全国支部巡錫(じゅんしゃく)のきっかけだったと、その後のご講演で大川総裁は仰っています。
大川隆法総裁曰く。
「どうせ死ぬのなら、せめて全国の信者さんの、お顔を見ておきたいと思った。」
という動機から、総裁の全国の支部巡りが始まったんですね。
ご自身の死を意識した、大川隆法総裁のお心残りは、
自分を信じて、盛り立ててくれた信者さんと、これまで身近で語らったことがなかった・・・ということだったのです。
ですから、誰に何と言われようと、総裁は巡錫をお止めになりませんでした。
それはそれは、強い強い決意で、総裁は全国中を回ったのです。
総裁の、お体を気遣う人もいたはずです。
また総裁のお仕事の質からすれば、せいぜい数百人程度しか入場できない支部単位での御説法など、費用対効果だと必ず赤字になるはずですから、そういった運営面で反対意見は絶対にあったはずです。
なぜならば、総裁は一日で本一冊分の霊言を降ろしたり、一日に何冊分の書籍の監修をしたりなさる方だからです。
大講演会ならばいざ知らず、到着するのに半日以上かかったり、前泊しなければならない遠方地などの支部巡錫など、経営面だけで見れば、絶対に割りが合うはずがありません。
しかし、当時の教団幹部の眼を盗んででも、ご家族に内緒でも、総裁は支部巡錫を続けました。
ですから総裁の支部巡錫は、いつもある日突然に、電撃的に行われていたはずです。
そう、休日とか平日とか、お構いなしでしたよね。(笑)
平日の朝、「今日そちらに、大川隆法総裁が伺います。」と言われ、急遽支部信者さんに連絡を取られた支部長さんも多かったとお聞きしています。
「前もって、総裁が来ることがわかっていれば、もっとお誘いできたのに。」
そうお思いになった方も多かったと思いますが、計画的に行えば絶対に反対されるので、全国200箇所と言われる、総裁の巡錫のほとんどすべてが、宗務の側近中の側近を連れ添ってのみの、お忍びで敢行されていたのです。
これは総裁が、「信者さんに合わなければ、死んでも死に切れない。」と、切にお思いになったからなんです。
どうですか、皆さん。
皆さんなら、「どうせ死ぬ。」という場面に直面したときに、一体何が心残りで、何を成したいと思いますか?
たった一つ、死ぬ前のわがままが叶うならば、一体なにをなさりたいですか?
その答えこそが、その人のすべてを現すのではありませんか?
あれを食べたいとか。
しこたま酒を飲みたいとか。
きれいなおねーちゃんと、あんなことやこんなことがしたいとか。(笑)
ねー、いろいろあるかと思います。
アモ~レは何がしたいか・・・って?
そんなことは、恥ずかしくって言えませんよ。(爆笑)
ともあれ、心臓麻痺で現実に倒れ、激しくご自身の死を意識した大川隆法総裁は、
「誰に何と言われようと、信者さんと合う。」
「信者さんに合って、直接話をしたい。」
「これだけは、絶対にさせてもらう。」
と決意なさったのです。
そう、幸福の科学の歴史に実在する、総裁の全国支部巡錫の歴史は、大川隆法総裁の人生で、最初で最後のわがままだったのです。
それ以外で、あっと驚くようなことも、幸福の科学ではありますが(笑)、それは仏陀救世主としての、仕事レベルでのご判断ご決断であって、総裁のわがまではないのです。
病み上がりの体でしんどくても、行けば大赤字だとわかっていても、ご家族や幹部職員が大反対でも、それでも総裁は、最後まで支部巡錫を敢行なさいました。
「もうどうせ、僕は死ぬのだから、最後のわがままは貫かせてもらう。」という思いは、誰にでもあると思います。
大川隆法総裁の場合、その最後の願いとは、
「信者さんに直接合って、直接話がしたい。」 だったのです。
僕は思うのです。
僕らはもう、十分に神仏に愛されたと。
「人生の最後に、信者さんと直接合って話がしたい。」と願われる御仁の信者になれて、僕は本当に幸せ者です。
それでは、またのお越しをー。(^O^)/