全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/
えぇと今日は、僕にとっては珍しく、仏教の話題ですけどね。
仏教の最終目的は、悟りなんですけど、その悟った心の状況を表したのは、涅槃(ねはん)の境地・・・だと教えていただいております。
その涅槃の境地とは、心が絶対的に平和な境地なんですね。
心が平和で、ビターっと安らいでいる心境のことです。
この涅槃の境地、すなわち平和の境地を実現するために必要なものが、解脱(げだつ)・・・なんですね。
解脱とは、これすなわち、自由の境地なんです。
心が何事にもとらわれず、自由自在に操れることです。
つまり、涅槃=平和の境地にいたるには、解脱=自由が必要だ・・・ということですね。
僕は自覚的には自由主義者ですし、時折自由について、ウンチクを垂れておりますけど、これは、仏教の最終目的を実現するには、必要不可欠なものなのですね。
これらは、一対なのです。
ですから、涅槃(平和)が実現しない解脱(自由)・・・もありえない訳です。
仏教的にはね。
それは、単なるワガママにしか過ぎない・・・かも知れませんね。(笑)
そして同様に、たとえ表面上は平和であっても、不自由感があってもおかしいのです。
それは、束縛されているだけ・・・かも知れませんよ。
宗教で自由・・・と言えば、何となく不自然な感じがし、
修行・・・とは、全く相反する、馴染みの薄い感じがいたしますけど、
実は、そのイメージこそが違っていて、心の自由こそ極めて本道、これこそ最も大切な事柄なんです。
そもそも、人から言われて、嫌々活動している天使や菩薩なんて、一人もいませんからね。
皆、自由意思の元に、自発的に神のため、神仏の理想実現のため、自らの個性を探求し、自らが出来ることを精一杯にやっているのが、菩薩や天使です。
否、僕がそうだ・・・とは、言いません。(笑)
大川隆法総裁先生の経典や、様々な個性豊かな霊人の方々の、お言葉を学んでの、あくまで僕の感想なのですけどね。
ですから、自由の発露・・・というのは、実は伝道活動・救世運動にとっても、極めて重要なアイテムな訳なんです。
ですから、宗教をやっていて、なんだか心が不自由であったり、心が平和でなかったりするのは、実は、何かが違っちゃっている証拠・・・なんです。
少なくとも、仏教の本道からは、何かどこかが違っているか、器が古いか、小さいか、どこか何かが欠けているに違いないのですね。
要するに、涅槃(心の平和)と解脱(心の自由)が、主観的のみならず客観的にも共存していなきゃいけないんです。
超~難しいですね。(^^;
その高いハードルを、ソチオリンピックでがんばっているアスリートのごとく、日々挑戦することが修行であり精進なんです。
宗教においては、特に幸福の科学のような霊的な宗教においては、
形だけ、見た目だけ整っていればそれで良い・・・というのではダメなんです。
中身、そう・・・心の底から、自由と平和でなければならないんです。
原因と結果の法則がありますので、臭いものには蓋・・・という訳にはいかないんですね。
それは、今現在蓋をして、肉の目には見えないようにし、肉の耳には聞こえないようにしても、必ずどこかで、絶対に吹き出してしまうものだからです。
ごまかしは、効かないのですね。
残念ながら。
まぁ、それは時には、お利口さんにしておかなければならない時もあるでしょう。
大川隆法総裁先生御法話の時・・・とか、精舎(しょうじゃ)の聖黙(しょうもく=黙っていること)の磁場確保とかね。
僕は、かつてのブログ記事でばれちゃいましたけれども、実はとてもアッチョンブリケなキャラ(笑)ですので、お利口さんにしているのは苦手なんですけどね。(爆笑)
えっと、まとまりが悪くなりましたが、(笑)
とにもかくにも、
実は仏教、そして本来の宗教の目的を達成するためには、自由という概念は、どうしても必要不可欠なものであるということが、お伝えできれば幸いです。
要するに、秩序ある自由を限りなく求めるのが、本来の宗教が持つ願いであるということです。
それでは、またのお越しをー。(^O^)/