悪とは何か・・・
それは、神から人間を遠ざける、思いや行いのことです。

罪とは何か・・・
それは、過去に犯した悪のことです。

神は、罪は許されるが悪は許さない・・・と言われます。

罪は反省によって許されるが、悪は今現在行われている所業であり、それは、断固として許さない・・・
これは、神が愛であるが故です。
罪は許されるべきものであり、悪は封じられるべきものである・・・この真理の謎を解く鍵は、神の愛です。

しかし人はとかく、自分自身の悪や罪を気付かなかったり、認めたがらない傾向があります。
これは誰彼がそう・・・ということでなく、僕自身もそうです。

それは人が、仏神の子である事実に依拠するものではないかと、僕は思います。

むしろ人が、神の子であるが故に、自分が悪を犯している存在であるということや、罪があるという事実を、認めたがらないのではないでしょうか。

悪霊だって、悪○だって、自分が悪いことをしているという自覚はありません。
自分は善い人間だ・・・と思っているのです。

人は神の子であるが故に、悪や罪を、本能的に嫌悪する・・・からこそ、逆説的ではありますが、そのようなことが、往々にして起こってしまうのではないでしょうか。

僕はことさら悪や罪という言葉に、敏感になる必要はないと思うのです。

なぜなら悪とか罪・・・
このような言葉の響きにとらわれている限り、反省がなかなか出来ないからです。

なぜなら、本能的に人は、自分が悪や罪を犯していることに、「できれば認めたくない。」という、深層心理が強く強く働くためです。

これは、ある意味での、人が神の子であることの証拠・・・ではないかと思います。

人が犯す悪や罪。
これを神は、どのような視点でご覧になっていらっしゃるのでしょうか。

今の僕には定かにそれを、お察しすることしかできないのですけど、恐らく・・・

哀れ という感覚で、ご覧になっていらっしゃるのではないでしょうか。

確実にあるであろう、自分自身の悪や罪を認められない時、そんな時はどうか、

哀れ という言葉で、それを置き換えてみていただきたいのです。

それは、何を隠そう僕自身が、過去に悪や罪を犯してきた自分自身を、

「なんと哀れな生き方をしてきたか・・・」 と、振り返った時、生まれて初めて反省ができたからです。

悪とか罪という、マイナスのフレーズにとらわれ、神の子として、意固地なまでに頑なであった心が、

哀れ というフレーズで溶け、神の視点を垣間見ることができたのです。

そして、許された体験を経験した後から人は、真に人を許すことができるのだ・・・ということを知りました。

人は生きている間は、「自分は悪を思わない。」と思ったら終わりだと思っています。
一番危険なのは、「自分はすばらしい魂だから、悪を犯さない。」「自分が悪をするはずがない。」という慢心に陥ったときで、これを僕は一番警戒してます。

こう思ったら、金輪際反省はできなくなるからです。
なぜなら、「悪を犯さない自分は、反省する必要がない。」という結論になりますからね。

人間は、三千世界すべての心をもっていると、常に自戒しなければいけないと思ってます。
しかし、だからこそ、自分がそういう心を持っているからこそ、悪の中にいる魂の辛さを実感しているからこそ、人を苦しみから救いたいと思えるのだと思います。

慢心をふせぐためにも、哀れなる心 というのは、一つの視点だと思います。

慢心て、怖いです。
「慢心して生きてみたい。」そんな誘惑に、駆られたい気分になることもございますけど。(笑)

また、慢心している相手の方には、
「あんた、それ、慢心だよ。」と言っても、ナカナカ聞いてもらえず、かえって、
「そんなこと言う、あんたの方が慢心している!」 と、一喝されたりします。(^^;

なかなか、自分を見つめるということは、難しいものです。

読者の皆様、僕が慢心している・・・と思うときには、どうか遠慮なく、一喝してくださいね。  (^v^)