全国のアミ~ゴの皆様、こんにちはー。(^O^)/

大川隆法ネット後援会長、アモ~レでございます。 

ええ、ここ最近は、仏教の反省の核とも言える、八正道の中の第一項目、正見について私見を述べさせていただいております。

僕の欠点は・・・怒りっぽい所です。
仏教の六大煩悩の もちろん六大煩悩全て網羅していることは、間違いないのですけど、特に強いのがこの、怒りの心なんです。

この怒りっぽい性格を修正しようと、様々なる努力を重ねてはいるのでありますが、今ひとつ効果がない・・・(笑)ので、もう破れかぶれで、僕はこう考えるようにしたのです。

この世、3次元世界というのは、光と影の世界である。
ならば、仏性と言えども、3次元的に翻訳すれば影ができるのではないか・・・と。

つまりこの世的に 『欠点』 と言われるものの中には、自分自身の本質、つまり仏性(もしくは仏性近き心)を、探り当てるヒントになるものが、存在するのではないかと思ったのです。

この世は光と影の世界です。

しかし、本来僕たちは、霊天上界の住人です。

そこからある一定期間、霊性の向上を目指して、この世3次元世界に生まれます。

僕たちの本来の世界、霊天上界は、光のみの世界です。

では僕のこの 『怒りっぽい』 という性癖を、光のみの世界にあてがってみればどうなるか、ということです。

さすれば、『情熱』 という一面になると思います。

何かに特別な思い入れをし、大切に思っているものがないことに、人は怒りを覚えることはできません。
それは、怒りには大変なエネルギーを必要とするからです。

つまり怒りとは、情熱という理念の影・・・とも言えると思うのです。

ですから動機としての、「何に対して、強い思い入れを持っているかが大切だ。」ということだと思います。
自分のプライドや、利益のみのために、怒りを発動することはいけないのです。

つまり僕の 『情熱』 という、魂本来の特徴と言える部分の、この世的な影が、『怒りっぽい』 という欠点として現れることがあると、言えなくもないということです。

簡単に言うと、そもそも情熱がなければ、怒りなんて沸いてこないということです。

であるならば、欠点を 『仏性の影』 と捉えることで、今度は、光の当たっている部分(魂の本質的部分)を、推測することが可能となるということです。

裁き心の強い人は、愛深き人かも知れません。
愛には、「こうなって欲しい」という願いは、必ず含んでいるものであるからです。

優柔不断な人は、多くの方々の人生の機尾が見えているのかも知れません。
人や社会をよく知っていなければ、そもそも迷うことはできません。

緊張しやすい人は、とても責任感が強い人かも知れません。
やぶれかぶれな人生を生きている人に、緊張感など無縁だからです。

欠点は仏性の影であるならば、欠点は欠点として、乗り越えなければならないものでありますが、しかし同時に、決してなくしてしまってもいけないものでもある・・・ということが言えるのではないでしょうか。

影のない絵など、それはもはや、絵画とは呼べないのではないでしょうか。
人生を一枚の絵とたとえるならば、欠点や不幸やトラブルや苦難などは、その絵画に芸術性を加える陰影だと思います。

僕たち、今を生きる人たちは皆、毎日一筆ずつ、自分の命というキャンパスに筆を加えているのです。

世の中に欠点で悩む方は、数多くいらっしゃいます。

『怒りっぽい心』を、僕の心の影だとするならば、その僕の心の、光があたっている部分は『情熱』だと、僕は思っております。

これを、神仏の眼を意識した時に、どういう論の展開が出来るかと申しますと、『怒りっぽい』 という欠点をなくすために、僕がもし 『情熱』 という美点を捨ててしまうことになれば、それはとても嘆かわしく、残念なことだと神仏は思われるのではないでしょうか。

また僕は、傷つきやすい心の人は、とても純粋な方であると思います。
そもそも純粋でなければ、傷つくことなど決してあり得ないからです。
しかしその方が、「傷つくのが嫌」という理由で、もしも純粋な心を捨ててしまうことがあれば、それは神仏を、とても悲しませることになるのではないでしょうか。

【純粋な心】そのものは、神仏が最も愛する、その方の美点であるはずなのです。
であるならば、傷つきやすさという欠点を克服する手段として、純粋な心を捨てる行為は、悪魔の手段であると僕は思うのです。

確かにこの方法なら、未来永劫傷つくことなどあり得ません。
しかし同時に、最も大切な宝、神仏の愛する徳目まで捨ててしまうことになるからです。

となると、傷つく心を克服するには、智恵による防御以外なくなります。
限りなく純粋な心を保ちつつ、真理知識、そしてこの世的知識を駆使して、純粋さを保つ意外に、方法はありません。

僕がこのような考えを持つに到った背景には、ある法友の存在があります。
その方は、拒食症と自殺未遂を繰り返しつつも、神仏のお役に立ちたいと、ボランティアを続けておりました。

その方は、拒食症などを克服できない自分を責めておりました。
しかし僕は、その方がそんなに自分を攻める理由がわからなかったのです。

そして僕は言いました。

「そんなに辛い中で、ボランティアを続けたいと願うあなたを、神さまは偉いと思っていると思うよ。」
「だって僕ですら、あなたのことを立派だと思うもの。」

その方は、はっとしていらっしゃったようです。
そして、僕はその方を通して、新たな見解に触れたことを感謝しておりました。

それは、「欠点は愛すること。」「まず受け入れること。」という見解です。
欠点を愛し、そしてきちんと認め、受け入れることで、克服する術(すべ)が見出されることがあるということです。

その方は今でも時折、支部ボランティアをしてくださいます。
素晴らしき法友との出会いに、心より感謝申し上げます。


それでは、またのお越しをー。(^O^)/