全国のアミ~ゴの皆様、ようこそ大川隆法ネット後援会へ。(^O^)/


幸福の科学って、ちょっと不思議な所があります。
幸福の科学は【悟り】を重視しますけど、「 悟りとは何か 」という問いに、これだ!!という定義が、どうも見あたらないんですね。
ご存じの方がいらっしゃたら、どうか教えて下さい。
「この本の、○○ページに、こう書いていますよ。」って。(^^;

僕は、幸福の科学の経典は、一応全冊読んでいるつもりなんですけど、見落としているか、もしくは僕のザルの様なアバウトざっくり頭脳を、すり抜けているかも知れません。(笑)

僕は、大川隆法総裁の定見がないということは、会員信者にとっては自由ゾーンだと思っています。
僕にとっての大川隆法総裁は、自由の神だからです。

総裁の見解が、完全に定まっている分野に関しては、さすがの僕も口出しできません。

たとえば、「脳死は死ですよ」などと僕が口走れば、「お前なんか、幸福の科学で学ぶ資格はな~い!!」と言われるに決まっています。(笑)
いくら僕があほ~でも、そんなにKYじゃぁありません。(爆笑)

総裁が未だ、語っていらっしゃらないことについて述べるのは、いかがなものか・・・。

そいう御意見も、あろうかとは思いますが、
総裁が、悟りについての定見を、発表なさっていないということは、

「会員信者の自由領域として、自由に考えを述べ、議論して良し。」
という総裁の、暗黙のメッセージなのではないかと、偏屈信者の僕は思ってしまうのです。(笑)

という前提に立って、今日は私の考える、【悟りとは何か】という定義に、挑戦してみます。
あくまで、アモ~レ個人の勝手な推測です。
幸福の科学の総意ではありませんので、悪しからず。

悟りとは何か。
僕が思うにそれは、

自分の考え・思想の、ベース(基盤)ではないかと思います。
つまり、自分自身にとっての、極々当たり前なこと ・・・です。

「自分だけが、そう思っているんじゃないよね。」
「きっとみんな、そう思っているよね。」

って、無意識にそう思っていて、議論することすらはばかられるくらいの、自分とっては本当に当たり前な、常識と思っている、超~基本的考え方。

これが、悟りの正体ではないかと、僕は思っています。

「死んだら、霊界に帰る」とか、「死んだら無になる。」とか、「人にはやさしくするべきだ」とか、「自分さえ良ければいいんだ。」とか、「神様を信じている」とか、「神様なんて、人間の都合でつくったものだ。」とか、

そういった、実に簡単にまとめられる、その人自身の 【当たり前】 ですね。
これが、悟りではないでしょうか?

別の言い方をすれば、死後に行く、【霊界の地面】とも言えますね。
幸福の科学では霊言を拝聴できますけど、霊人は個々人の立脚点に立って話をしています。

この立脚点、すなわち霊界の地面こそ、悟りではないでしょうか。

地面があるのは人間生活をしていれば、それは【当たり前】のことなので、それをいちいち意識して、気に掛ける者など基本的には、あまりおりません。
つまり、自分が悟っているかどうか、基本的な考えのベースがどこにあるかは、意識しないと絶対にわからない・・・。

この、悟り=当たり前論の、定義が正しければ、そういうことになります。

しかし個々人の当たり前、その心の立脚点は一応ではなく、みんな違います。
人の数だけ、立脚点は違い、事実上、人の数だけ霊界はあるのです。

霊界は、見たいものだけを見、聞きたいことだけを聞き、言いたいことだけを言い、行きたい所だけに行き、やりたいことだけをやる世界です。

ですから、霊界にいる限り、自分の立脚点が奈辺にあるかは、永遠に分からないはずですね。
なぜなら、自分と立脚点の違う人と比べることが、波長同通の法則で、絶対にできないからです。

自分の思考の立脚点を知り、そして、神仏と心の立脚点を近づけるために、僕たちは地上に生まれ、様々な人生経験を積んでいるのではないでしょうか。

この世では、自分と基本的なものの考え方の違う人に、生きている限り出会えるからです。(笑)
つまり自分とは、【当たり前感覚】 の違う人との出会いが、一生続くからです。

そして、自分自身の振り返り、つまり 【反省】 が始まるわけですね。
それによって、

自分の 【当たり前】 と思っていたことは、他の人の 【当たり前】 とは違う・・・ ということが分かる訳ですね。

僕は信仰者ですけど、宗教的な記事が苦手です。(^^;
ですから、まとまりの悪い、下手な文章ですみません。

アモ~レ見解をまとめると、
悟りとは、自分の当たり前である・・・ということです。