リテラシーと言う言葉がある。「読み書き能力」という意味だが、なぜかメディアリテラシーという単語になると「情報受け手側の判断能力」という意味に変わる。そこでは有益・無益な情報を選り分ける力、メディアの「読み方」だけがクローズアップされ、「書き方」については全く触れられていない。読み(インプット)と書き(アウトプット)が揃ってこそリテラシーは成立するのであって、現在の「メディアリテラシー」概念は、明らかに不完全な状態にある。
それはなぜか?その理由として、テレビによる影響を考えてみる。
テレビは「送りっぱなし」のメディアだ。その点において、情報の送り手と受け手の関係は、全く対等ではない。放送局側は、大衆に向けて無尽蔵に情報を発信できる極太のパイプを持つが、大衆側には、放送局に向けた投書等の細いパイプしか与えられていない。しかもその影響力は無きに等しい。テレビは、大衆へ情報を「読む」事を強制しつつ、大衆側が反応し「書く」ための構造を持たないメディアということだ。
メディアリテラシーという概念が「読み方」の部分だけにスポットライトを当てるのは、そこに原因があるのではないか?
そもそも「書く」ための機構自体が存在しないテレビメディアに対して「書き」ようがない。それが「書き方」が無視される理由だろう。
それ故に大衆側からは「読み」の部分でしか対抗することができない。我々に出来る事は、情報の蛇口を閉めること、もしくは情報の味見を繰り返す事だけだ。
メディアリテラシーとは、不完全なメディアであるテレビへの対抗策であるために、その対抗策自体も不完全な状態に陥っているのだ。
私のブログは「受信だけじゃやだから発信」という副題をつけている。テレビ、ラジオ、新聞、書籍等のメディア世界において、一般大衆が「書ける」メディアはウェブ上にしかない。学者や識者、著名人は他メディアを用いて発信できるが、我々には縁のない世界だ。
本当のメディアリテラシーを手に入れたいのなら、新聞やテレビを並列に「読み」、ウェブで検索しているだけではいけない。それではいつまでも「情報の受け手」のままだ。唯一の双方向性メディアであるウェブを使い、発信してこそ「読み」と「書き」を兼ね備えたリテラシーの使い手になることができるのだ。
えーと…だから皆ブログやろうよ笑
それはなぜか?その理由として、テレビによる影響を考えてみる。
テレビは「送りっぱなし」のメディアだ。その点において、情報の送り手と受け手の関係は、全く対等ではない。放送局側は、大衆に向けて無尽蔵に情報を発信できる極太のパイプを持つが、大衆側には、放送局に向けた投書等の細いパイプしか与えられていない。しかもその影響力は無きに等しい。テレビは、大衆へ情報を「読む」事を強制しつつ、大衆側が反応し「書く」ための構造を持たないメディアということだ。
メディアリテラシーという概念が「読み方」の部分だけにスポットライトを当てるのは、そこに原因があるのではないか?
そもそも「書く」ための機構自体が存在しないテレビメディアに対して「書き」ようがない。それが「書き方」が無視される理由だろう。
それ故に大衆側からは「読み」の部分でしか対抗することができない。我々に出来る事は、情報の蛇口を閉めること、もしくは情報の味見を繰り返す事だけだ。
メディアリテラシーとは、不完全なメディアであるテレビへの対抗策であるために、その対抗策自体も不完全な状態に陥っているのだ。
私のブログは「受信だけじゃやだから発信」という副題をつけている。テレビ、ラジオ、新聞、書籍等のメディア世界において、一般大衆が「書ける」メディアはウェブ上にしかない。学者や識者、著名人は他メディアを用いて発信できるが、我々には縁のない世界だ。
本当のメディアリテラシーを手に入れたいのなら、新聞やテレビを並列に「読み」、ウェブで検索しているだけではいけない。それではいつまでも「情報の受け手」のままだ。唯一の双方向性メディアであるウェブを使い、発信してこそ「読み」と「書き」を兼ね備えたリテラシーの使い手になることができるのだ。
えーと…だから皆ブログやろうよ笑