自分でわかったことは、見えない世界を信じさせるために精神世界を文章にして教えたいわけではないってことです
癒しは
誰かにとって、なにか言葉なり、内容なりが自分にとって気になったら
書いてあること、頂いたメッセージを、最終的には自分でどう感じて、どうしたいかを掘り下げるのが良いと思ってます。
神託も、人からであれ、神からであれ、言葉にされた時点で、例えば光源から影響を受けた側の周波数が変われば、
思いがその場からすでに変容することもあるでしょう?これも目には見えないことです
ですから、厳しいようですが、成人の意識であるなら、すべての最終選択は自己責任となり
~のせいで、~って言ったから~
と言う思い通りにならなかった怒りの感情は、時に自分や他者を縛ります
大人の意識であるにも関わらず、
ある一定期間を過ぎてまでも、必要以上に期待してしまったり、テリトリーを超えて他者に依存していることを知らせてくれています
そんなことになれば、実りも受け取れず、出会ったご縁に感謝もわいて来なくなります
気持ちが変わると行動も変わりませんか?
話す内容なりが変われば、
視点も変わりませんか?
視点変われば、世界が変わりませんか?
ひとも変わりませんか?
そこに良いも悪いもなく、ただシンプルに、自分がどうしたいかで、そのように角度はいかようにも変わりゆきます
神託も、当たる当たらないといったものではなく
可能性を秘めているから
どんなものも自分以外の外側にあるものに依存してしまわず
100%寄りかかるものではない
との結論に達したところも私の体験から導き出されたものです
癒しは
受け手、与え手