こんにちはー指輪

(*^_^*)


今日は、私の心の世界からの発信記事です桜


私たちは、おギャー!!!と命の産声をあげ、汚れのない心でこの世に誕生してきますが

成長して行くにつれ

暮らしているだけでも、日々すぐに自分以外に汚れて染まっていってしまいます

昔からの風習で『神社や寺や教会』へ行き、神主様や牧師様やお坊様に一年日頃の汚れをお祓いして頂いたり

または懺悔と言う形で汚れを落としにゆきます

カウンセリングも自分に合っていればお掃除になりますね桜

神様や仏様は、いる!と、私は考えてるので、すいません、ここからは、このようなはなしが続きますニコニコごめんねペンギン
(^^ゞ

ではなぜ、神様がいるのに、この世の中、不幸なことがたくさんあるのか

不幸な出来事、人、イライラしてる人、病気の人、なぜ、私たちは、平等だと思えない事がたくさんあるのか

時には自分が成長するために、創造したハードルだったりするのかもしれません


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私たちには、煩悩と言うものがあって

どこかで一度は聞いたことのある、この言葉について考えました

(´・ω・`)?


『悪いことはみな、他人のせいだ!あいつのせいだ!こいつのせい!』と

自分が今苦しく、不幸なのは誰々のせいだと自分を不幸に陥れた犯人を探し

『責任転換』をしてしまう

ほっとけば、私も、自分へのダメ出しジャッジはいつも無意識にやってますハートブレイク

自分の不幸に他人を恨み倒し、憎み倒し、ぜーんぶ人様のせい伴侶のせい、親のせい、あの子のせい、生まれた国のせい、世界のせいとことごとく

他に自分の責任を押し付けて泣いている

はじめは誰かのせいかもしれないけど、自分の中にないものは見えないし、波長の法則があるのは、知ってる方も多いですよねニコニコ

自分の種(原因)から咲いたもの、生えたもの(結果)を

他人になすりつけようとして犯人探しをしてしまうと

それは、とても依存的で『生き霊』のような恨みに執着してしまうことになります

その状態は、『煩悩と言う闇に乗っ取られて支配されているから、本来の自分の輝きが

隠れて押されて抑圧されて、操縦席もハンドルをも明け渡している』ってことにも気づけなくなっている状態です

自分という光の中にある、なくなることはない一点の闇に、つけこまれている状態なのだろうと思います

ひとは弱い生き物なのだろう

時に恨みや不安にしがみついて生きている方が、まるで心地よい

『ぬるま湯』のようで楽なので

自分のみかたをしてくれて、耳さわりの良い言葉を言ってくれる人を求めて、毎瞬癒されようとするけど、一時的で癒されたりはしない


最終的には、自分や他人を許す勇気が、なかなか出ては来ないのです


悲しみや怒りを見ないようにしたり隠したりするのではなく


何らかの理由で、化学変化を起こして自分と違うものに変わっているなら

もとに戻すための自然の働きがありますが

何をもって作用させて変化させてゆくのか、建設的な方法、そんな可能性があって、外からも人工的なサポートできるとしたら


自分にとっての平常に戻るために、作用させてくれるものは何かに気づく必要があるのではないか



続く(=゜ω゜)ノ



感謝キラキラ