おはようございます。
先日のZERO(名古屋)でいただいた感想のひとつに
次のようにありました。
私が幸せなら皆幸せであるという気持ちを忘れずにしていきます。
内側がすごく穏やかな状態を幸せというのだと僕は思います。
愚痴や批判や、そういう思考が出るときは
決して幸せな状態にはないということで。
何にせよ自分自身が幸せであることが大前提。
特に、人の容姿というか仕草というか行動というか、
外側にとらわれるとき、
その人の内側を観ることができないわけで、
しかも人間の本質が慈愛であるとするならば、
単に外観で区別(差別?)してしまっているだけのように
僕は思うのです。
僕自身にもそういうときは多々あります。
年齢や性別や職業や肩書や、
そういうものを一切超えたところに
やっぱり真実がありそうです。
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次のようにありました。
私が幸せなら皆幸せであるという気持ちを忘れずにしていきます。
内側がすごく穏やかな状態を幸せというのだと僕は思います。
愚痴や批判や、そういう思考が出るときは
決して幸せな状態にはないということで。
何にせよ自分自身が幸せであることが大前提。
特に、人の容姿というか仕草というか行動というか、
外側にとらわれるとき、
その人の内側を観ることができないわけで、
しかも人間の本質が慈愛であるとするならば、
単に外観で区別(差別?)してしまっているだけのように
僕は思うのです。
僕自身にもそういうときは多々あります。
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そういうものを一切超えたところに
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