「デミアン」を書いた1919年、ヘルマン・ヘッセは悟ったのでしょうか?

そうとしか思えない箇所がいくつも表れます。


シンクレールの悟り。

ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。―各人にそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。(中略)目覚めた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった。
(高橋健二訳新潮文庫版P190)

なるほど、「覚悟」ということがわかったということです。

そして、デミアンとの会話の中で・・・。

「むろんさ。きみは変わったけれど、きみにはしるしがあるじゃないか」
「しるし?どんなしるしさ?」
「ぼくたちが昔カインのしるしと呼んだしるしだが、おぼえているかね。ぼくたちのしるしさ。きみにはいつもそれがあった。だからぼくはきみの友だちになったのだ。ところが、いまじゃ、それがいっそうはっきりしてきたよ」

(P200)

彼(デミアン)はヨーロッパの精神と現代の特徴について語った。彼は言った。いたるところに結合と衆愚人の集団が支配しているが、どこにも自由と愛がない。学生組合や唱歌会から国家にいたるまで、すべてこれらの団体は余儀なく形成されたものだ、不安、恐怖、当惑からできた団体だ、そしてそれは内部が古くなって腐敗し、崩壊しかかっているのだ、と。
(P201)

そして、極めつけはデミアンの母である、エヴァ夫人(「エヴァ」とは!)との邂逅。

「きみはもうぼくの母のところに行ったのか」と、彼はたずねた。
「うん、デミアン、なんてりっぱなおかあさんだろう!エヴァ夫人って名はまったくうってつけだ。万物の母のようだね」

(P214)

さらに、ヘッセは核心をついてゆくのです。

しるしを持っている私たちが世間から奇妙だ、狂っている、危険だ、と思われたのも、もっともかもしれない。私たちは目ざめたもの、あるいは目ざめつつあるものだった。(中略)しかし、私たちの解釈に従えば、われわれ、しるしのあるものが、新しいもの、孤立したもの、来るべきものへの自然の意志を表していたのに反し、ほかのものたちは固執の意志の中に生きていた。
(P215)

現在のものの崩壊と新生とが近づいており、すでに感じられるということは口に出すにせよ出さぬにせよ、私たちみんなの気持ちの中では明らかだった。
(P217-218)


100年前から「今」を見据えてヘッセはこの小説を認めたのだとしか思えません。