イワンととある紳士の会話から紳士の弁。

君はやはりこの地球のことを考えてるんだね!だが、この地球は、百万度もくりかえされたものかもしれないじゃないか。地球の年限が切れると、凍って、ひびが入って、粉微塵に砕けて、こまかい構成要素に分解して、それからまた水が黒暗淵を蔽い、次にまた彗星が生じ、太陽が生じ、太陽から地球が生ずるのだ―この順序はもう無限にくりかえされているかもしれない。そしてすべてが、以前と一点一画も違わないんだ。とても不都合な我慢のならん退屈な話さ・・・
米川正夫訳(岩波文庫版第4巻P168)


同箇所を新潮文庫版で。

君はやっぱり現在のこの地球のことを考えているんだね!だって、現在の地球そのものも、ことによると、もう十億回もくりかえされたものかもしれないんだよ。地球が寿命を終えて、凍りつき、ひびわれ、ばらばらに砕けて、構成元素に分解し、また大地の上空を水が充たし、それからふたたび彗星が、ふたたび太陽が現れ、太陽からまたしても地球が生れる―この過程がひょっとすると、すでに無限にくりかえされてきたのかもしれないじゃないか、それも細かな点にいたるまで、そっくり同じ形でさ。やりきれぬくらい退屈な話さね・・・
原卓也訳(新潮文庫版下巻P343)



これはまるでニーチェの「永劫回帰」に等しい思想です。

それを思うと、ドストエフスキーその思想にもニーチェのそれにも

通底するのは「性悪説」であり、「厭世観」であるといえるでしょう。

しかしながら、実はそんなことはどうでも良いのです。

「判断」しなければ良い。いや、「判断」を超えて観る視点を持つことが

やっぱり重要だと確信するのです。

ちなみに、終章に向かう第11編の結びはアリョーシャの次の言葉です。

イワンは真理の光の中に立ち上がるか、それとも・・・自分の信じないものに奉仕したがために、自分をはじめすべての人に復讐しながら、憎悪の中に滅びるかだ。
米川正夫訳(岩波文庫版第4巻P189)


となると、ゾシマ長老がアリョーシャに僧院を出ることを薦めた理由が

よくわからなくなります。

俗世間に下りたことで、どうしても二元論的思考にまみれてしまう。

それが人間としてのバランスを保つことだと長老はあえて

言いたかったのかもしれませんが・・・。謎が残ります。


ところで、ニーチェが「永劫回帰」を著したのが「ツァラトゥストラはかく語りき」。

1885年の出版です。

一方、「カラマーゾフ」は1879年~80年に書かれています。

ということは、ニーチェはドストエフスキーの思想からヒントを得た

ということでしょうか?いや、極端に言うとパクッたといえるのか・・・??


この辺りの事情に少々疎いので、気になります。

真相はいかに・・・。