昨晩、第6編「ロシアの僧侶」第1、ゾシマ長老とその客

を読んでいて、はたと腑に落ちました。

そもそもドストエフスキーがこの小説の主題に選んだ聖書の言葉、

誠に実に汝らに告げん、一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。
(ヨハネ伝第12章第24節)

の意味。そして作家の意図が。

もちろん僕は宗教家ではないので、この言葉の真意がこれまで身体の

芯からわからなかったとしても、それは何ら不思議ではありません。

でも、昨晩は違いました。

アリョーシャの記憶による長老の言葉、その箇所は次のように

書かれます。


わしがお前を町へ送ったわけはな、アレクセイ、兄弟としてのお前の顔が、あの人(=ドミトリー)の助けになることもあろうと思うたからじゃ。しかし、何もかも神様の思し召し次第じゃ。我々の運命とてもその数に洩れぬ。「一粒の麦地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。」これをよう覚えておくがよい。
(岩波文庫版第2巻P149)


私たちはそもそも身体によって、あるいは思考によって分断されている

だけなんだと。分断されている記憶をつなぎ、ひとつになれば

わたしもあなたもない世界が目の前に現れるということなのでしょう。

長老がアリョーシャに娑婆に出ろといった理由の一端がここにある

のかもしれません。長兄ドミトリーとの関係が見逃せません。


ということで、ZEROポイントを知り、徹底振り返りにより

脳のシステムを最適化する、この方法
は間違いないようです。

宣伝を兼ねて(笑)



※ちなみに上記聖書の言葉がヨハネ伝の

12章24節という「数字」に驚きました。

12時間、12ヶ月、あるいは24節季など、

宇宙や自然の理にのっとった数字・・・。偶然なのでしょうか。