アレクセイ(アリョーシャ)の記憶によるゾシマ長老の説教より。


決して高ぶってはなりませぬ。小さきものに対しても、また大なるものに対しても、高ぶることはなりませんじゃ。我々を否定するもの、我々を侮辱するもの、我々を迫害するもの、我々を讒謗するものを憎んではなりませぬ。無神論者、悪の伝道者、物質論者をも憎んではなりませぬ。その中の善良なものばかりでなく、兇悪なものすら憎むことはなりませぬぞ。ことにいまのような時代には、そういう人たちの中にでも善良な人がありますでな。
(岩波文庫版第1巻P334)


聖職者によるよくある説法ですが、アリョーシャは

長老に次のようにも諭されたようです。


なんのために、一たいなんのために自分はここ(=僧院)を出て行ったのだろう?またなんのために長老は自分に「娑婆」へ出ろとおっしゃったのだろう?ここは静寂と霊気に満ち充ちているのに、あそこは混乱と暗黒の世界で、中へ入ったら忽ち方角を失って、途方に暮れてしまわなければならぬ・・・
(岩波文庫版第1巻P325)



今の世にもまったくそのまま通じる箇所だと思います。

「カラマーゾフ」は10年以上前に新潮文庫版で読んでおりますが、

細かいところをすっかり忘れてしまっております。よって長老の

アリョーシャへの言葉の真意をドストエフスキーがどのように展開して

いるのか忘却の彼方。いまいちどその答を探りながら再読しているところです。


僕が考えるに、先日のデヴィッド・ボームの言葉 ではないですが、

思考のバランスのことを言っているのではないか、と。

ボーム博士は「参加型思考」と「具体的思考」という言葉で論じておりましたが、

混沌たる現実世界(お金や色情や、様々な煩悩が渦巻く世界)において

禅で言うところの「不思善、不思悪」を体得することこそが

人として重要なことなんだと言っているように思うのです。


さて、じっくりゆっくりとページを進めてまいります。