とっくに41歳という年齢は越えておりますが、

池田晶子氏の「41歳からの哲学」を読んでみました。

これが実に面白いのです。

氏は残念ながら2007年2月23日にわずか46歳っで腎臓がんのため

亡くなっておられますが、年齢を問わず必読の価値ありです。

特に、最近ここでも話題にしている「思い込み」について、池田さんは

「観念」という言葉を使って興味深く論じておられます。



自分の思い込みのために死ぬなんてのは、その意味では、最も安直な方法である。思い込んだ人なら誰にでもできる。人間は思い込みの動物だからである。しかし、思い込みとは、右に述べたように、早い話が勘違いなのだから、パッションmにまかせて、力いっぱい思い込まれた勘違いは、周囲の人々の迷惑になること必至なのである。
かくも人間という生物においては、すべてが転倒しているのである。転倒の支点は観念にある。観念を観念と見抜き、まっすぐに現実に立つためには、人は、考えるということを、たまにはした方がよいのである。

(P13)

テロも戦争も。これを起こすものは、数千年来、人間の観念である。人間は観念の動物だから、これは仕方ないと言えば仕方ない。しかし、観念をもつゆえに、動物ではない人間なのでもある。もうそろそろ、少しくらいは進歩したい。観念を観念だと見抜けるくらいの現実性は身につけたい。
(P22)

ところで、美学というからには、それはひとつの観念であろう。人生そのものではなくて、人生についての観念、平たく言えば、思い込みである。(中略)人生は、生まれたから死ぬまで生きているという、たんにそれだけのことだからである。美しいもみっともないも、本来は、ないのである。
(P23-24)

いずれ人が生きるためには、思い込みが必要である。生存に観念を必要としないのは動物だけであって、人間はどこまでも観念の動物である。存在しない死を、観念として所有してしまったからである。
(P28)

しかし、景気のよい時代に、自分の青春が遭遇したのは、たまたまのことである。それは、自分が凄かったのでも自分が偉かったのでもない。たまさかの僥倖なのである。たんなる現象である。たんなる現象をたんなる現象だと認識していないから、景気が悪くなれば、自分も終わりのような気持ちになる。しかし、景気がよかろうが悪かろうが、自分が自分であるということには、何ら変わりはないではないか。
(P43)

出会い系にせよ、ネットチャットにせよ、なぜ人は、さほどにまで他人を必要とするものだろうか。「人とつながりたい」「自分を認めてもらいたい」というのが、ハマる人々の言い分である。しかし、自分を認めるために他人に認めてもらう必要はない。空しい自分が空しいままに、空しい他人とつながって、なんで空しくないことがあろうか。人は、他人と出会うよりも先に、まず自分と出会っていかなければならないのである。まず自分と確かに出会っているのでなければ、他人と本当に出会うことなどできないのである。
(P46-47)



彼女は死ぬまで携帯もパソコンも持っておられなかったのだと。

もはや達観の境地ですね。

そういう方は若くして亡くなられますね。



41歳からの哲学
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池田 晶子
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