最終章「参加型思考と無限」が重要です。

それまでの6つの章はここを理解するための前説のようなものです。


参加型思考と具体的思考があることを著者は強調します。

初期の人類の文化、あるいは現代でもある程度までは

「参加型思考」なるものがあり、自分たちと自然との絆を感じ、

自然の事物の思考を共有しているという強烈な認識のことを指します。

「スピリチュアル的思考」と言い換えてもいいかもしれませんね。

一方の「具体的思考」は、現実をありのままに反映することを

目的にしたものだということ。要は「三次元的思考」と言い換えられるでしょう。


そのことを前提にして、重要な個所を抜粋します。


ところで、「参加(participation)」という言葉はどんな意味だろうか?実は、2つの意味がある。早く用いられたのは、「分かち合う」という意味だった。人々が食物を分かち合う場合のように―全員が共有の器から食べ、パンだろうと何だろうと分け合う。象徴的なものにせよ、実際的な行為にせよ、昔の人々にとってこの言葉は源泉を分かち合うことを意味した。トーテム像と自分たちが、源泉からのエネルギーを分かち合っていると彼らは感じた。一体化という感覚が生れたのである。西欧の文化において、この意味は中世まで存続した。2つ目の意味は、「参加する」というもので、他人を何かに加わらせることだ。現代ではこれが主流となっている。ある人が受け入れられ、全体の中に入ったことを意味する。人はなんらかの形で自分が受け入れられたという感覚がなければ、どんなものにも参加できないのである。
(P179)

参加型思考では、すべてのものがあらゆることに参加しているとみなす。参加者自身が地球を分かち合っていると考える―そこには「個人」という概念はない。人が地球によって育てられているようなものだと言っていい。
(P180)

しかし、参加型思考にも、実に不適切な、むしろ危険とさえいえる面がいくつかある。ヒトラーの時代の、ドイツのビアホールでのことである。人々はビアホールで腰を下ろし、参加意識と同志愛を大いに感じながら歌った。「おれたちは皆仲間だ。おれたちは世界を征服しに行く。そいつは実に素晴らしいだろう」。だが、現実に行動を起こしてみると、それはあまり素晴らしいものではなかった。このように、参加型思考というこの概念が、必ずしも完璧な幸福を生む公式ではないことがわかるだろう。
(P181)


この後も、参加型思考の重要性が繰り返し説かれますが、著者が1992年

に亡くなっていることを考慮すると、20数年前当時の人類への警告であった

と考えてもいいと思います。

いわゆる「スピリチュアル思考」がある程度認知、理解されるようになった

現代においては「参加型思考」と「具体的思考」のバランスをいかにとるか

が各人の課題ではないでしょうか?

「対話」においても、その両方が必要であると僕は考えます。