超無敵クラスなんか見てると、子どもたちが自分のが好きなことに没頭し、その道を極めている。その姿は、キラキラと輝いている。
そこでふと、「本当の贅沢とはなにか?」を考えた。彼らはお金のために動いているか?否。純粋に自分の興味に従って動いている。 没頭しているときは他のすべての事を忘れ、自分の世界に入っているのだ。
世の中、お金を基準に判断し過ぎではないだろうか?
確かにお金は必要である。お金を稼いでいかなければ食べていくことはできない。ここは外すことができない。人間の原始の姿ならば、狩猟採集・あるいは農耕によっていた部分が仕事に置き換わったと言える。
また、お金があったら、いろいろな贅沢ができる。例えば、美味しいものを食べたり、静かな環境でくつろいだり、XXなことをしてみたり。だが、冷静になってみると、これらのことはお金がなくたってできる。美味しいものは自分で工夫すればできるし、静かな環境なんて田舎に行けば良い。XXも技術ひとつだ。
お金を持っている人が偉いのか?一見偉く見えるのは、多くの人がそのお金欲しさにひれ伏しているだけではないか?これには2つのパターンがありそうだ。一つはお金にひれ伏すケース、もう一つはその人が成し遂げてきたことが素晴らしいからだ。後者は、要するに「与えてきたもの」だ。さらに考えると、与えたものが「お金」か「それ以外か」ということにもなるだろう。
人が誰かに何かを与えること、すなわち「仕事」である。仕事はお金を稼ぐ手段であると同時に、自分とは何かを定義し、それを通じて誰かに価値を与える。お金は誰かに価値を与えた対価として返ってきているというわけだ。だから、結果として「お金を持っている人が偉い」ということになるかもしれない。しかし、世の中そう単純ではなく、価値を与えた対価としてではなくお金を得られることも事実だ。だとしたら、そのお金をもって尊敬されるのはやはり違う。いわゆる「成金」が尊敬されないのも、多くの人がこのことを感じ取っているからだろう。
ここで気がつくのは、お金と仕事の関係だ。
生きるためのお金 ― 食べるための仕事
贅沢するためのお金 ― 仕事を頑張るモチベーション
与えた価値の対価としてのお金 ― その人の価値としてのお金
要は「お金のために頑張る」というのは、働くことに対するモチベーションなのだ。逆に言えば、モチベーションが「お金を使って贅沢すること」以外にあれば、もはやお金は仕事の尺度ではなくなる。
仕事のモチベーションとは何か?
一つは、他人志向だろう。他人に価値を与えることで幸せを感じる。これは幼児から人間に備わる性質であるようだ。人に喜んでもらうことは、格別である。
もう一つは、仕事それ自体が好きということだろう。超無敵クラスであったように、他のことをすべて忘れて没頭できること。そう、最終的には趣味を仕事に、仕事を趣味にすることができ、それが他人に対して価値のあることであれば、こんなに良いことはないのだ。
自分が没頭できる仕事 ― それは物事の本質を追求することだ。これを発信してそれが誰かのためになるのなら、私はこの仕事をずっと続けていたいと思える。最低限食べて行けるなら。