結局誰も知らない | THOUSAND WINDS

結局誰も知らない

前から思っていた。
聖書に残された記録としてのイエスは、
史実のイエスとは異なる。
弟子たちらによって装飾された、
余計なものを沢山ひっつけられた、
そんな偶像。
だから聖書のみとか言い出すと
聖書に書かれたイエス像を絶対化してしまう。
聖書の読みは各自で違うし、
どれが正しいの、は今さら確かめようがない。
それゆえプロテスタントは必然的に、
分離せざるを得ない。
聖書に書かれた事をもっては
きっとイエスの事は分からない。
キリストの事なら分かる、
それはパウロを初めとして、
原型はユダヤ教の聖書にも出てくる、旧約聖書じゃない、
向こう方の聖典。
それは作られたものだったから、
事実なんかもうどうだって良かった。
ただ墓が空であった、それだけが事実だ。
なぜそうだったのかは分からない。
誰か弟子が画策したわけでもない。
マルコ書までが恐らく事実、
あとはおまけだ。
その空っぽであった墓からここまで
イマジネーションが広げられ、
ドグマが生まれた。
誰も事実は分からない。
誰もが自分なりの意見を持つことしか、それぞれが正しいか間違ってるかを
批評する事も出来ない。
ただ外典やヨハネ書をあたってると想うのは
イエスはなぜか最初から十字架には関心があったと言うか、
初めからそれを目論んでいたふしがある。
それがなぜだかは分からない。
でもこんな感覚は異端でしかなくて。