どうせだから存在論 | THOUSAND WINDS

どうせだから存在論

存在している者が存在しているのはなぜかとか、

何が存在しているのかと、

自分自身についての疑問を発している。

存在している者だから存在についての疑問も出てくる。

存在していると言うことは普通は物質がそこに在ると言う事を指す。

そこに在ると言うことは何らかの観測によって、

つまり人間で言えば5感によって、感じられることを意味する。

だから普通は5感で捉えられないようなものは、

存在していないと考える。

でもX線だとか赤外線だとか電波とか重力とか言うものは、

目に見えないし聞こえないし触ることも出来ない。

5感で捉えられないけれども、それは存在していると私たちは知っている。

300年も前であれば、つまり18世紀頃であったならば、

まだ電波なんてものも重力なんてものも放射線みたいなのも、

発見されていなかったのだから、

それはこの世に無かったと言えなくもない。

つまり人間が発見して行く過程で、

この世界にちりばめられている要素は、

じょじょに見つかってきていることになる。

300年前には、電波も光波も重力波もレトロウィルスも

何も無かったのか?と言えばそれらは存在していた。

花粉症にしても、我々が子供の頃には名前すら聞いたことが無かった。

だからと言って、昔花粉なんてものが無かったわけでは絶対にない。

つまり何が言いたいかと言うと、

今我々がとらえられないものであっても、

目に見えないし5感でもとらえられないし、どんな観測機器をもってしても

見つけられないようなものでさえも、

現在も存在しているものは、あると言うことだ。

存在論が何を言いたいのかは今ひとつ分からないけれども、

私たちはそれなりにこれまで一つ一つ、世界の秘密について

あばき続けてきたのだし、それは今後も引き継がれるだろうし、

今存在しないと思っていたものでさえも、

100年後には当たり前なことになっているかも知れない。

ものが存在しているということは、我々がそれを何らかの手段によって

観測して検出できることを意味すると考える。

だから人間の心とか魂とか霊と言ったものでさえ

今の段階でそれは「ない」と言い切ってしまうのはどんなものだろうか。

少なくとも我々そのものが今存在している限りは、

我々に属しているものは

何らかの形で存在していると考えなければ

つじつまがあわないのでは?

長いね