こんな学校、自分の子供なら

絶対いれませんよ

私が、保護者に話したことが

生徒数の減少につながったのを知ったのは

ずっとあとのことだった

それまで3学級以上あった学校だったが

翌年、私が二年目を迎えた年には

二クラスしか入学してこなかった


中学校は学年ごとにそれぞれ別の学校と言えるくらい

学年のカラーが強く

同じ学校でも、雰囲気がまるで違うことも

珍しくない


その1学年は中堅の汗っかきな数学と

ベテランの国語が担任を持った

数学の教員が学年主任で

彼は規律を大事にする教員だった

簡単に言うと、細かいことにうるさく

自分の思い通りにしないと許せない

厳しい先生だった


私も自分が経験するまで気付かなかったが

二クラスにというのは、お互い比べられるので

とてもやりにくいのだ

国語の先生は、年齢も上で学者肌の先生だった

数学の先生のクラスとはずいぶん違う感じだった


生徒たちは当然のことながら

締め付けの厳しい数学の教師を嫌った

自分たちが締め付けられる分、その鬱憤を

自分よりも弱いものをいじめることで

解消するようになっていった

その学年は、卒業していった生徒たちのような

非行傾向は見られなかったが

私の教員生活で最も陰湿な雰囲気の

生徒たちとなっていた


二年間のバトルを終え、その学年に

国語の先生の代わりに担任として入ることになったとき

学年の生徒たちから、異常なくらいの

熱烈な歓迎を受けた

私のことを「救世主」と呼ぶものまでいた

生徒たちの期待は相当に高かった

隣のクラスの生徒たちからは

いいな、いいなと言われていた


そんなバランスの中で始まったわけだが

案の定、隣のクラスでトラブルがあると

生徒たちは担任ではなく、私に助けを求めた

担任は話を聞いてくれない

担任とは話をしたくない

そんな感じだった


秋ころか、生徒たちの様子がおかしくなり

担任を無視したり、集団で反抗したりするようになった

さすがの担任も、これにはかなりまいっていた

そんなころ、教員間でちょっとした誤解が生じ

生徒のことと重なり

その担任が学校に来られなくなってしまった


私は両者の間を取り持つような役割となり

数週間で何とか担任は復帰することができたが

もうやる気はまるでなくなっていた

その学年が終わるまで、何とか惰性で勤務して

次の年に任期途中で異動していった


根が正直というか、子供っぽいというか

運動会で、頑張っている生徒に

俺にも仕事させろよ!と吠えてしまう先生だったから

自分が転勤することになったときも

生徒に直接恨み辛みをぶちまけていった

生徒たちの大人不審はマックスの状態になっていた


翌年、その担任がいなくなり

生徒たちがガラリと変貌を遂げたのを見た

新しくきた学年主任は、状況もわからずの状態で

私が前学年主任のやっていた「締める」役割を

しなければならなくなった

人によって態度を変える生徒たちのことは

私も許せなかった


前担任をいじめて追い出した生徒たち

彼がいなくなったとき、新たな生け贄が必要となった

それに選ばれたのは

一年前に「救世主」と呼ばれた私だった