その3年の中に、台東区の番長的な生徒がいた

ほとんど学校には来なかったが

時々顔を出して、騒いでいなくなることがあった

それぞれの学校に不良はいたが

それがよく私たちの学校の裏に集まる傾向にあった

ボスのいる学校、ということだ

(台東区の学校は、どこも公園と隣接して作られている

そこに各校の問題生徒が集合する)


放課後の時間帯には、しばしば10数名が集合するので

その都度、学校の職員が出動することになる

そんなとき、真っ先に飛んでいく教員と

どこかに隠れてしまう教員がいた

「教師の仁義に反する!」とはこういうことで

少なくとも、現場に駆けつけるべきだった


その時の生活指導主任は柔道の達人で

中学生なら片手でひょいと持ち上げる位の力持ちだった

しかし、出動の際いないことも多かった

私たちの仲間の中に元不良(?)の教員もいて

その手の中学生の扱いがうまかった

他校の生徒とは話ができないので

自分の学校の目だった生徒を引き離し

説得して、その場から立ち去らせることをした


そんな毎日を過ごし、夏休みとなった

台東区の中学校は、霧ヶ峰にある区の施設で

泊まり込みの部活合宿というのをやっていた

私はその年は英語部という、

演劇部みたいな部活の顧問だった

体育系ではなかったので、自分の部活はいかなかったが

引率の一員として参加していた

その当時は、夜になれば飲んでいたもので

私を始め何人かはギターを持ち込んでいた

仲間の教員はみんな歌が好きで

昔のフォークソングをみんなで歌って楽しくやっていた

ある晩、生徒たちを集めて何曲か演奏したら

バカウケした


秋になり、文化祭が近づいてきた

私は学年のために劇を一本書き下ろした

その当時の生徒の様子を、そのまま話にしたものだった

この劇には、学年の演劇好きな真面目な生徒たちが

喜んで取り組んでいた


そういえば、私はとても不思議に思っていたのだが

あんなに荒れて、めちゃくちゃで

生徒たちの気持ちはバラバラなのだが

不思議とひどいいじめのようなものはなく

不登校の生徒もほとんど皆無だった

お互い、あまり干渉せずに

それぞれのテリトリーで、居場所を見つけられたのだろう

これは、そのあともよく見られる

我々教員には不思議に思える現象だった

(今なら、その理由はわかる気がする)


文化祭は、その当時画期的なやり方で

「このこの指止まれ」方式、という運営をさせていた

生徒の自主的な活動を全面的に推奨し

教員は、ほとんど手を出さない感じだった

教員がやらない、ということは

いわゆる「何でもあり」みたいなところがあり

ヒヤヒヤするところもたくさんあったが

やる気のある生徒が、ものすごく育った

積極的に参加した人だけが楽しい思いができる

真面目な生徒だけでなく

何か、表現したがっていた生徒たちが

秘めた才能を発揮していた


そして、結果的には

このような生徒主体の取組で

この学校は再生していったのだった


生徒もやりたい放題だったので、

教員もやってしまえ、ということで

部活合宿でやった教員バンドを

メインステージにあげることになった

「ゲリーズ」という教員バンドは

私が音楽マスター(バンマス)で

ギター、キーボード、トランペット

そして、歌のうまい男女がメインボーカル


文化祭当日は

生徒たちも、はじめから興奮状態だったが

一曲目の「神田川」で歌が始まった瞬間

体育館が割れんばかりの歓声が上がり

ビートルズか?と思うような盛り上がりだった

最後の「ラブ・ラブ・ラブ」の頃には

全員が一体感を味わっていた


このバンドは、学校が立ち直るのに

ものすごい影響があった

教員も、バラバラだったのが

団結するようになり、生徒たちと

真正面から向き合うことができるようになっていった


仁義に反する教員の影はすっかり薄くなり

もはや、学校内で何の影響力もなくなっていた


生徒たちと同じ、この指止まれ方式だった